・気ぐるひし老人(おいびと)ひとりわが門を癒えてかへりゆく涙ぐましも・
「白桃」所収。1933年昭和8年作。・・・岩波文庫「斎藤茂吉歌集」170ページ。
斎藤茂吉の自註から。
「自分は精神科医だから、これまで随分沢山の病者を診察してゐる。その千差万別のむつかしい病者のうち、この老人の精神病者が全快して退院したとき、非常に自分も嬉しく感動したのでこの一首を作ったが、この歌はわけもなく直ぐ出来た。< 涙ぐましも >の結句は今ではもう珍しくないが、この歌では割合に自然に据わってゐるやうにも思ふ。またかういふ歌は身辺小説のやうなもので大作とは謂へぬが作者自身にとっては未練のあるものが多い。精神病医は多くの場合感謝せられざる医であるから、かういふ場合には先づ珍らしい特殊の場合と謂はなければならない。」(「作歌40年」)
何やらやけに控え目な物言いだが、後進の歌人の評価は高い。
「作者は精神病医で、青山脳病院院長であったからこういう作がある。精神病はなおりにくい病気のようだが、今日ほど薬の進歩していなかった当時にあっては、こういう場合はそうしばしばではなかったろう。しかもそれが< 老人 >であることに作者の感動がある。・・・それを端的に< 涙ぐましも >といった。< わが門 >は病院の門、病院どちらでもいいが、この場合は門のところで見送った趣である。そのために< 涙ぐましも >という套襲の古語が自身の言葉のような直接性をもってひびいている。」(佐藤佐太郎「茂吉秀歌・下」)
「ぼくらにとっては< 気ぐるひし老人 >というのが既に特殊である。その老人がいまようやく癒えて帰ってゆく。それは< 先づ珍らしい特殊の場合 >だが、さて、その老人の残生はどうなるのであろうか。< 涙ぐましも >は直接には、癒えて退院してゆく老人に対する感動だが、さらには、それだけでない老人の人生に対する哀恡の眼がこもっていよう。それを「癒えてかへりゆく涙ぐましも」と単純に没細部的に言ったのが抒情詩の行きかたである。」(長沢一作「斎藤茂吉の秀歌」)
精神病医だった作者ならではの作品で、茂吉の「人」があらわれている。茂吉の「死生観」のようなものも。茂吉の写生は「汎神論的」と言われるが、それは熱心な仏教徒の家に生まれたものによると僕は考えてきた。それは間違いではないが、それだけではなく、精神病医として多くの患者と真向かって来たところにも由来するのではないか。もし外科医であったならこういう作品は出来なかっただろう。(同じ医者でありながら、この辺が岡井隆や上田三四二との違いではないかと思う。)
だから既に茂吉の「赤光」のなかの「狂人守」「葬り火」「冬来」などの連作にあらわれている。そしてその患者と「真向かう」ことは、精神医療が未確立で、薬も満足になく、社会的な偏見もあった当時にあっては、「時代と切り結ぶ」ことでもあったろう。それを「報告」ではなく、抒情詩に昇華せしめたところにこの作品の価値があるのではないだろうか。