・わきいでし湯のあつまれる流あり熱き静けき乳いろにして・
「群丘」所収。1959年(昭和34年)作。・・・岩波文庫「佐藤佐太郎歌集」114ページ。
まず佐太郎の自註から。
「< 熱き静けさ >というように、たたみこんだ言葉がほかにもあるが、もとは斎藤茂吉先生にあるのだろう。さがすのがわずらわしいから、心ある人は当ってくれるとありがたい。八幡平の歌は力をいれて作ったから、< どろどろの熱きたぎちは沼の上いくところにも盛りあがり湧く >の< どろどろの熱きたぎち >など、言葉の充実した句が多くある。」(「作歌の足跡-海雲・自註-」)
作者をしてこう言わしめるのだから、八幡平の一連の作品を生んだ「吟行」はかなり充実したものだったのだろう。
そのことを踏まえた上で、佐太郎らしさがいくつかある。
まずは言葉の好み。歌人にはそれぞれ好んで用いる言葉がある。故・河野裕子は「たんぽぽ」が好きだった。斎藤茂吉は「しんしん」など口語発想の副詞(副詞的語句=形容詞や形容動詞の連用形)を好んだ。現代の歌人でも、カタカナ語・犬猫・古書店・亀・透き通る・光などを好む人がいる。(それを歌人の実名と関連させて種明かしし、短歌大会の「入選」の可能性が高くなるから来年も投稿をと、表彰式で堂々と言い放った歌人がいたが、無論そんなのは論外。)
佐太郎は「帰潮」から「群丘」の時期に「乳いろ」という語を好んで使っている。乳白色という漢語を避けたのだろうが、今読むと「乳いろ」という語は、かなり古めかしい感じがする。50年以上経てば、言語感覚が合わなくなるのは当然だろう。だから「言葉を引きうつす」のは余り意味がない。逆にそのことを以て原作を非難するのも意味がない。要はなぜそういう言葉を使ったかを考えることが、最重要なのだ。
次に「詩的把握」。「熱き静けき」の部分。温泉の源泉の周囲は蒸し暑く、まして「わきいでし」熱湯の近くであるから、「熱き」は分かるが、「静けき」は実態と矛盾する。だがその「熱い」流れが「乳いろ=乳白色」であるがゆえに、佐太郎は「静けき」と捉えたのだ。ここに作者の発見と主観がある。
最後に「主観と客観の一体化」。「わきいでし」「熱き」流れは客観的な実態であり、「静けき」は主観である。そしてそれは「熱い=動」と「静けき=静」の対立する二つの感覚である。象徴詩の技法「二物衝突」がここにある。岡井隆が「佐太郎さんの作品は読んでいるうちに、あれ、そいうなっちゃうのというところがある」というのは、こういうところを言うのだろう。「熱く流れる」では面白くない。「象徴的写実歌」と呼ばれる所以である。
そしてこの傾向は斎藤茂吉の「赤光」の「疎句」のなかに、原初的なものが既にある。こういうことは恐らく教えられたものではなくて、茂吉の作品を読みながら、佐太郎のなかで輪郭のはっきりしたものものとなっていったのだろう。
またこの時期の佐太郎の作品には「山の歌」がかなりある。だが茂吉ほど数は多くない。これも特徴の一つか。(茂吉の山の歌については岡井隆著「茂吉の短歌を読む」にくわしい。)