「運河393号」作品批評(斎藤茂吉と佐藤佐太郎の歌論に学ぶ)、2
(町工場が閉鎖された歌)
この一首も省略が効いている。何の工場かあるいは、どこの町か。こういったことを一首に詠みこむ必要はない。宮柊二は佐太郎と同時代の歌人だが、両者の全歌集を読めば、「表現の限定」「省略」の意味が理解できる。宮柊二は優れたリアリズム歌人だが、佐太郎なら更に言葉を削ったであろうというものが大半を占める。佐太郎に学ぶという旗頭を掲げるなら、考えるべきことだろう。
(池の水源を未だに知らないという歌)
鋭い感覚の作品である。一首の中に漂う清涼感がすがすがしい。池の名も地名もない。この作品も「省略」が効いているのだ。結句の表現に作者の独特のものの捉え方がある。
(残り世は性善説を信じて行きたいという歌)
年齢を重ねてきた作者の境涯詠である。老いの歌だが、愚痴やボヤキがないのが好ましい。年をとると体のあちこちが痛んでくる。その事実をそのまま五句三十一音にあてはめても詩にはならない。詠嘆と愚痴は違う。自己を見詰めることとボヤキも違う。佐太郎の晩年の歌を読まれるとよいと思う。
(雛を奪われた燕の歌)
雛を奪ったのが誰かはわからない。野生動物に奪われたとすれば、厳しい自然の摂理である。しかしこの作品には燕への愛おしみがある。文学には愛おしみが必要。それが人間愛の場合もあれば、郷土愛の場合もある。仮に夫婦の確執を表現するにしても、相手に対する思いやりがなければ、ただの愚痴になる。不倫まがいの作品もまたしかりである。佐太郎が妻を詠んだ作品に目を通して頂きたい。又、作品批評を書くには、茂吉や佐太郎から何を学ぶかをふまえて頂きたい。読んでいない、知らないではすまされない。