「運河393号」作品批評(1)
かつて運河賞を文学賞と呼んだ選考委員がいたが、短歌が文学であるなら、日常報告や感想文とは違うはずだ。
(喫茶店が閉店した歌)
喫茶店の名前、店主の病気、店主と作者の関係など細かい事は省略されている。佐太郎の言う限定とはこうしたものだろう。詩は暗示、連想を最大限活用する。現代詩の優れたものを読めばよくわかる。日常報告的些末主義との違いはここにある。
(寒菊に揚羽蝶が飛んでくる歌)
冬の蝶であろうか。気温の低下に堪えて、よく生きのびた。寒菊の黄花は冬に感じられる生命力だが、この揚羽蝶は動物の生命力の証である。裸木が並び、動物が冬眠する時期だが、生命の営みは脈々と続いている。
(御殿場の演習場の砲弾の音の歌)
集団的自衛権、安保関連法案を巡って、議論がなされた昨年だった。今年の夏か秋には停戦合意の破れた南スーダンでの、自衛隊の武力行使が予定されている。一首は富士山麓の演習場である。「たった一年で平和が崩れるかも知れない」という野坂昭如の最後の手紙が思い出される。
(湧水を飲む歌)
清涼感のある感触で世界を捉えた作品。張りつめた情感が心地よい。感覚を研ぎ澄ませて成立した作品だ。何より印象が鮮明なのが好ましい。印象鮮明なるがよしと言ったのは斎藤茂吉である。
(永く勤めている自分を詠った歌)
作者の職が何なのかは省略されている。だが「宮仕えのつらさ」という言葉がある通り務める場合は複雑な人間関係もあろうし、自分を殺すこともあろう。そういった個別具体的なことを捨象して一首にまとめたのが成功している。
(戦跡で聞いた惨劇に涙する歌)
戦跡がどこかは一首からはわからない。省略されているのだ。これが佐太郎の言う「表現の限定」だ。惨劇の内容も分からない。そこまで説明する必要はないのである。結句の「われも老いたり」に作者の切実な実感がこめられている。省略し限定しただけ情感が深まったのだ。
(焼け跡に土蔵が残っている歌)
他の5首から考えると、作者の自宅近くの寺院が焼失したようである。どの作品も注目に値するが、掲出の一首を選んだ。固有名詞がはいっていないこと、主観語が使用されていないからである。地名などの固有名詞は情感を一つのものに固定してしまう。佐太郎の作品に固有名詞が、ほとんど見られないのは固有名詞を省略することによって、作品に普遍性が出るからだ。佐太郎の固有名詞の使い方にも学ぶ必要があろう。(固有名詞が情感を固定化するという話は、詩人中でもかわされている)。
(以下続く)