短歌の表記。「新カナか旧カナか」という問題は、それだけで総合誌の特集記事ができるほどの問題である。Aという歌人が「旧カナから新カナ」にかえたのとほぼ同じ時期にBという歌人が「新カナから旧カナ」に変えたという話も聞く。また自ら旧カナを使う篠弘が、「詩歌文学館の館長として、旧カナか新カナかシンポジウムをやる必要があるだろう。」と述べたのは、つい最近の短歌総合誌上である。
このことに関し最近あるかたより資料を送って頂いた。その資料の中に「現代仮名遣い・識者が指摘する問題点」という項目があった。識者とは誰か、いつ頃の論調かが書かれていないのだが、その「問題点」は次の通りである。
1.読みづらいこと。
2.語源がわからなくなったこと。
3.どう表記するか分からない言葉が仮名の多く生じたこと。(助詞が間違っているが、ママとする。)
「地震」「図画」「鼻血」「築く」など。
4.五十音と連関する動詞の活用が破壊された。(言語体系の破壊)
5.同語異発音の余裕が消滅したこと。
「頬」は、ホオ・ホホ・その中間が許容されていたのに「新カナ」では「ホオ」が正解とされそれ以外は誤りとなる。
6.拗音・促音を小さく書く表記法のせいで煩雑・醜悪になったこと。
7.口語文には文語文にある「美」がない。・・・詩の言葉にはならない。表現上とかく俗に傾きやすい。
の7項目である。
どうも印象として「新カナ」への切り替えが行われた直後の議論のようであるが、それはそれとして僕の考えを述べたい。
1・むしろ読みづらいのは「旧カナ」である、と思うのは僕だけではないと思う。
2・語源を示すために文字はあるのではない。
実際に使うために言語や文字はある。語源を表記の指針として過大に強調するのはいかがなものかと思う。
3・どう表記するかは「新カナ」の場合明快である。
[ZU}音は「ず」を基本とし、「かんづめ」「はなぢ」など合成語に関するものはそれに準じ、「つづく」「じしん」「すずめ」など同音の文字が濁音となって続く場合はそれに準じる。
4・言語体系と文字。言語体系が先にあるのでなく、実際に使われてこその文字であり、それが言語体系となる。言語体系を優先するのはおかしくはないか。
また、口語には口語文法の体系がある。(中学生の国語単元の重要なポイントのひとつ。)ぼくは三十年近く、断続的に実際に教えてきた。(おっとこれは口語文語の問題だった。)
5・「ホオ」「ホホ」は漢字で「頬」と表記すればよい。
「ほほ」と表記する詩人も多く、学校のテストはともかく、使いたければ「ほほ」と表記すればよい。誤りと感じる人はそう多くはない筈だ。「ほほ寄せて」などと書けば表現が甘くなるが、それは余談。
6・拗音・促音を大きく書くと僕などは、奇異な感じを持つ。
「あつぱれ」「ヨツト」などと表記されて戸惑うのは、僕だけだろうか。(促音便「あっぱれ」「ヨツト」は文語にも使われる。特に平家物語に多い。この「つ」を小さく書いても特段醜悪ではないと僕は思う。)
7・「口語文には美がない」と言うが、坪内逍遥・二葉亭四迷に始まる「言文一致」には「美がない」という訳でもあるまい。
美文で知られる、志賀直哉・川端康成・三島由紀夫の作品は新カナ・口語文でも充分美しい。「俗に傾きやすい」のは僕もそう思うが、それは作品の内容の問題。
おや、仮名遣いの話がいつの間にか文語口語の話題になっている。脱線してはいまいか。
「旧カナ」から「新カナ」へ移行して60年以上経過した。生まれたときから「新カナ」を使っている人の比率は、どのくらいだろうか。それを考えると、この問題はぼくにとっては「霞」のような話と感じるのだが、いかがだろうか。このことについて、佐藤佐太郎が柔軟に対応していたであろうことは、すでに述べた。
それはともかく、「旧カナ・新カナ」の問題を項目別に整理して頂いたことに、心から感謝したい。