斎藤茂吉の「写生」は、対象の核心を把握して、自己と対象が一つになった世界を具象化すること。生命を写すと言ってもいいが、生活や生き方を写す(表現する)と考えてみた。
(新緑のブナの林に爽やかに生きたいと思う歌)
上の句が情景、下の句が心情。この二つが作者の生き方の表白となって一つに表現されている。
(自分の寿命を鍾乳洞の石筍と比較する歌)
鍾乳石、石筍の形成は途方もなく長い時間を要する。それと比し、人間の生のいかに短いことか。作者はそれを自分の生と結びつけた。
(雀が人との距離を測る歌)
生きるためにパンくずを拾う雀。そのひたむきな生は、人間との距離をとることに支えられている。人間の近くで生活する動物の習性であろう。作者は他人との距離を図りながら生活しているのだろうか。そこまで暗示させられる作品。
(ひたむきに遂げたいことはなんだろうと、星の光を仰ぐ歌)
鍾乳石と同様、星の寿命はとてつもなく長い。そうした悠久の時間と、一瞬のみずからの生を結びつけた。そうした短い人間の生をいかに生きるか。これを自問している。
(万物を煙らせる雨がほののあたたかい歌)
叙景歌である。作者の目は見巡りの万物に及ぶ。山川草木。大自然をとりまく時間もまた悠久だ。それを見つめる作者。そこにはみずからの生への問いかけもあるだろう。
(春楡の枝から無限に飛ぶ光の粒子)
この無限は数量的なものだが、前三作と同様の時間の連続性との共通点がある。無限、悠久は、数量的なものでもあり、時間的なものでもある。
(ガラス窓に打ち付ける風、遠き電車の音)
作者と電車の距離感。これが作品の奥深さを生み出し、世界を立体的に捉えているのが、感じられる。距離感。これは空間的無限である。