岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

短歌・日本語・斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・社会・歴史について考える

ブナの木通信「星座」83号より

2017年11月04日 01時25分24秒 | 作品批評:茂吉と佐太郎の歌論に学んで
斎藤茂吉の「写生」は、対象の核心を把握して、自己と対象が一つになった世界を具象化すること。生命を写すと言ってもいいが、生活や生き方を写す(表現する)と考えてみた。

(新緑のブナの林に爽やかに生きたいと思う歌)

 上の句が情景、下の句が心情。この二つが作者の生き方の表白となって一つに表現されている。

 (自分の寿命を鍾乳洞の石筍と比較する歌)

 鍾乳石、石筍の形成は途方もなく長い時間を要する。それと比し、人間の生のいかに短いことか。作者はそれを自分の生と結びつけた。

 (雀が人との距離を測る歌)

 生きるためにパンくずを拾う雀。そのひたむきな生は、人間との距離をとることに支えられている。人間の近くで生活する動物の習性であろう。作者は他人との距離を図りながら生活しているのだろうか。そこまで暗示させられる作品。

 (ひたむきに遂げたいことはなんだろうと、星の光を仰ぐ歌)

 鍾乳石と同様、星の寿命はとてつもなく長い。そうした悠久の時間と、一瞬のみずからの生を結びつけた。そうした短い人間の生をいかに生きるか。これを自問している。

 (万物を煙らせる雨がほののあたたかい歌)

 叙景歌である。作者の目は見巡りの万物に及ぶ。山川草木。大自然をとりまく時間もまた悠久だ。それを見つめる作者。そこにはみずからの生への問いかけもあるだろう。

 (春楡の枝から無限に飛ぶ光の粒子)

 この無限は数量的なものだが、前三作と同様の時間の連続性との共通点がある。無限、悠久は、数量的なものでもあり、時間的なものでもある。

 (ガラス窓に打ち付ける風、遠き電車の音)

 作者と電車の距離感。これが作品の奥深さを生み出し、世界を立体的に捉えているのが、感じられる。距離感。これは空間的無限である。




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