・いくたびか時雨のあめのかかりたる石蕗(つはぶき)の花もつひに終りぬ・
「暁紅」所収。1936年(昭和11年)作。
茂吉の自註。
「晩秋初冬の写生であるが、皆底にひそむ哀感を伴ってゐるやうである。・・・『いくたびか時雨のあめのかかりたる』もさうであるし、『つひに終りぬ』もさうである。」(「作歌40年」)
哀感。これがこの一首のキーワードだろう。「いくたびか」「つひに」は佐太郎の言う「虚語」であり、その他は客観だが、情景が抒情となって表出されている。
どちらかというと地味。華やかさもなく、やや線も細い。そこで見逃されそうな一首。だが「目に見えるものを『写』すことが、作者の感情をも『写』すことになる」という岡井隆、塚本邦雄が指摘するような作品だ。
やや線が細いといったが、そのせいか佐藤佐太郎著「茂吉秀歌・下」、長沢一作著「斎藤茂吉の秀歌」、塚本邦雄著「茂吉秀歌・白桃~のぼり路・百首」、岡井隆著「茂吉の短歌を読む」のいずれもとり上げていない。
だが「景を写す」のは確かだ。このブログでの記事で茂吉の作品を順を追って読み込んできて、あらためて思うのだが、茂吉の叙景歌が形をなすのは、この時期ではないだろうか。
「庭前初冬」と題された一連には、次のようなものもある。
・石蕗(つはぶき)に隣りて生(お)ふる山羊歯の黄に伏す時にわれは見にけり・
・赤き雲おびただしくも棚引きてありし夕(ゆふべ)と聞きしこほしさ・
・いくひらの公孫樹(いちゃう)の落葉重なりてここにしあるかたどきも知らず・
・わが庭は冬さびにけりまぼろしにいまだも見ゆるさるすべりの花・
・冬の光さしそふ野べの曼珠沙崋青々としたる一牟の草・
・窓したに馬の蹄の音しつつめずらしき物音のごとくに聞きつ・
戦争が激しくなる中、茂吉にとっては自宅の庭を見て歌を詠むのが、いっときの休息であったのかも知れない。