この書籍は2006年11月から2007年2月まで続いた「社会詠論争」の記録集だ。社会詠は時事詠とも言われる。僕はこの二つを分けて考えているが、それはこの論争とは無関係なのでここでは述べない。
この論争は『かりん』誌上に小高賢が「ふたたび社会詠について」と題した評論を掲載したのに始まる。小高が加藤治郎、吉川宏志、林和清、松村正直の社会詠を批判し、それへの反論を大辻が青磁社のサイトに書き込み、小高が応え、当事者の吉川が小高に問いを投げかけ、小高がそれにそれぞれ応える。またそれに大辻、吉川が応える。という展開で論争が行われ、2007年2月4日にパネルディスカッションが行われ、論争は終結する。そのパネラーの発言も掲載された記録集だ。パネラーは小高、大辻、吉川。司会が松村だ。
発端となった論文とパネラーの応酬が面白い。だがこの論争は痛み分けだったように感じた。
まず小高。言わんとしていることは分かるが世代論として若い世代の作品をくくったのが失敗だ。小高が初めに批判した四人の作品は一様に論ぜられない。(これは後述)
大辻。「歌には良い歌とそうでない歌があるだけで正しい社会詠などはない。実感のこもっている歌がいい歌だ」という趣旨のことを強調する。
吉川。ほぼ納得できる論を展開してると思うが、「歌によって自分の見方を回復したい」と述べていることからも分かるように「自分なりの現実を歌っていくのが大事だ」という。
だが大辻と吉川の論にも100パーセント賛成はできない。
大辻の「実感のある歌」とは大辻の作品で言えば「9・11の同時多発テロを『爽快』と詠んだところ。これは納得できない。つまり実感があれば何を歌ってもいいのかという問題だ。
吉川の「歌によって自分の見方を回復したい」。言いたいことはわかるが問題はその見方だ。「見方が正しいかどうか」の問題ではない。内容が文学表現にたる内容か、ということだと思うのである。
僕は短歌を文学と考えている。「言葉遊び、機知の競い合い」と考えるのは論外だ。短歌を文学と考えれば、切り込む姿勢が問題だ。社会と個人。これはしばしば対立する。哲学の用語で言えば「社会が人間を疎外しているのだ。そこに葛藤が生まれる。これを描くのが文学だ。文学は感想文ではない。実感が出ていればいいと言う問題ではない。
だから三人のパネラーの全員が論に欠陥を持っていると思う。この本は僕が短歌を始めて10年たったころに出版された。一度は読んでみようと思っていたが今回ゆえあって読んでみた。今まで読まなかったのは理由がある。
僕も社会詠の在り方を模索していた時期が続いていたからだ。ペンネームで『短歌』の読者欄に投稿を繰り返した。10年以上続けた。『短歌』の選者にとられること50回。特選、入選も10回ほどになり「短歌年鑑」にも収録された。自分で社会詠のありかたを自由に模索したかった。だから本書はあえて読まなかった。
だが今回この本を読んで、自分の見解に自信を持った。
特選の中には吉川が選んだ一首もはいっている。『オリオンの剣』に収録した作品だ。
・爆風ものぼりゆきしや長崎のここなる坂に白猫あるく
「ここなる坂に白猫歩く」が実に上手い。という吉川の選評だったと記憶している。