どこで聞いた言葉だったろうか。「北海道は異国だ。」異国というのは大袈裟だとしても、北海道にはそういう印象がある。今回はANA63便で、千歳空港へ飛び、ANA4716閔で羽田空港へ帰ってくる旅だった。
北海道で先ず感じたのは「空気が本州とは違う」ということだった。冷たいのは勿論、乾いている。到着したときは小雨交じりだったが、蒸し暑くない。そういえば、北海道には梅雨がない。
特に印象的だった小樽でのこと。これを書こう。ここでは白鳥番屋へ行った。番屋というので、山小屋かバンがローのようなものを想像していたが、ニシン漁の網元の邸宅だった。白鳥(しらとり)はその家の苗字で、解説によれば、江戸末期に苗字を許されたとなっていた。
網元は漁村の資産家である。一回の漁で、いまの価値で2億円を超える収益があったそうだ。それに対し漁業労働者を「やん衆」と言う。網元に雇われて漁にたずさわる。網元と「やん衆」の格差は歴然だ。しかし白鳥番屋では、ほかの網元の番屋とは違って、「やん衆」と網元が同じ屋根のしたで生活した。番屋の土間の天井近くに「やん衆部屋」があって、土間には囲炉裏と竈があった。これが暖房であり、調理の場でもあった。
その「やん衆部屋」のさらに上に高窓がある。竈の真上の望楼のように設置されたもので、竈の煙の排出口であるとともに、ニシンが来たかどうかを確かめる望楼でもあった。地元では今も言われる。「ニシンが来ると海波がさわだつ。」
小屋は小樽の歴史的建造物に指定されているが、年に何度かは宿泊客も受け入れる。今回はそこに宿泊したが、民家は人間が住まないと傷みが進むそうだから、宿泊客を受け入れるのだろう。
室内は高級和風建築になっていて、網元の居住空間には大きな床の間があった。部屋は和室が四つ。それぞれに古い家具や、絵画、魚拓があった。旧家が解体される時に、寄贈されたそうだが、イシナギ、オーヨウ、シーラカンスといった体調1メートルをゆうに超える魚の魚拓が印象的だった。小樽近海で釣り上げられたもので『老人と海』を彷彿させる巨大魚だった。小樽近海は魚の宝庫なのだろう。
夜、番屋の近くの海岸沿いを散歩して、磯浜の最先端まで出てみた。普段ならそんなことはしないが、石狩に住んでいる詩人と、小樽出身の詩人の案内で、夜の磯浜の臭いを嗅いだ。遠くに石狩の街の灯りが見える。小樽の街灯りが海面に反射して、曇りにもかかわらず、驚くほど海面は明るかった。海の響きが聞こえ、不気味に大きな音を立てていた。短歌を1首詠んだ。
一夜明けて、小樽から少し離れた「オタモイ海岸」へ行った。秘境を思わせる険しい海岸沿いの断崖、砕ける波しぶきは、泡を消すことがない。遊歩道が落石のため閉ざされているが、地元の写真家、中島博美の案内で、突き当りまで行った。
突き当りには守番が住んでいて、魚介類の密漁の監視と、地蔵尊の管理をしていた。どうやら、地元漁師が豊漁を祈る地蔵尊らしく今でも熱心な信者がいるようだ。遊歩道の崩落によって、移設が企画されているが、話が進まないそうだ。神仏はそこの大地宿るという古い信仰がまだ残っているのだろう。海の青が驚くほど深かった。
短歌は詠めなかったが、深く記憶に留めた。こういう記憶が後日蘇って、作品になるのは何度も経験している。
この遊歩道は立入禁止になっている。中島博美の先導がなかったら歩けなかっただろう。稀に見る体験をしたことになる。幸運だった。
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