・くろぐろと檜(ひ)のしげりたる奥山にあはれおぼろに雨ふりしきる・
「暁紅」所収。1936年(昭和11年)作。
難解な言葉はない。比較的目立たない歌で、自註(「作歌40年」)でとり上げられていない。佐藤佐太郎・長沢一作・塚本邦雄も同様である。だが、その傾向については「暁紅」の「巻末記」に書いてある。
「この『暁紅』に前行する昭和8年、昭和9年あたりの歌に比して、幾分変化の跡を見ることが出来るやうにおもふ。ひとつは抒情詩としての主観に少しく動きを認め得るのではないかと思ふのであるが、これは願はくは本集中から幾首かを拾ひあげていただきたいのである。天然風光に接した歌に於いても同然である。」
ではどこが「変化」なのか。それは叙景歌に「主観語」を使用したことである。島木赤彦の「客観写生」を大正歌壇の「達成した水準」(岡井隆編「集成・昭和の短歌」)とすれば、ここにはそれにないものがある。
島木赤彦は主観語を嫌った。それも頑固なまでに。徹底的な「客観写生」なのだ。著書「万葉集の鑑賞および其の批評」でもしばしば出てくる。「この作品は主観語があるだけ弱い」。
斎藤茂吉も叙景歌に「主観語」は余り使わなかった。だがこのころから、主観語の使用、情景に感情を「乗せる」作品が徐々に増える。主情的叙景歌となって行くのだ。「万葉調を駆使した独創的な悲歌」(「集成・昭和の短歌」の篠弘によろ略歴)になって行くのだ。
茂吉はこの年、木曽での講演ののち各地を巡った。鞍馬・王滝・氷ヶ瀬・寝覚の床・大平峠・飯田・白骨温泉。その間の作品の数は215首に及ぶ。この旅は茂吉にとって一大転機となったのだろう。
冒頭の作品は「氷ヶ瀬(こおりがせ)」の一連11首の中よりとったが、次のような作品もある。
・わが友としばしば目ざめ一夜寝けむ山の氷ヶ瀬に来り悲しむ・
・しぐれ降るなかに立てれば峡(かひ)にして瀬の合ふ音は寂しかりけり・
・石むらに時雨あめ降りけふの日や心もしぬに去りがてなくに・