・わが体机に押しつくるごとくにしてみだれ心をしづめつつ居り・
「暁紅」所収。1935年(昭和10年)作。・・・岩波文庫「斎藤茂吉歌集」188ページ。
茂吉の自註から。
「(先の「戦没学生を悼む歌」と同様)これも雑の歌で、生活断片歌ともいひ得るものである。・・・『乱れ心』が一首の主眼で、乱れ心は即ちこの場合は憤怒であった。作者(=茂吉)のやうな、いい年をして悟り切れない者は、一首の歌でも現実暴露してしまふのである。」(「作歌40年」)
茂吉がこの歌集の後記に書いている様に、この頃から茂吉は「抒情詩として主観を表に出すようになる」のだが、これは後に佐太郎に受け継がれるもので、島木赤彦など従来の「アララギ」にはなかった傾向である。だが「怒り」の内容を述べないところは「アララギ」の手法である。
その意味で佐太郎の先駆と言えるが、直喩の使い方といい佐太郎の方が一歩進んでいる。茂吉の比喩表現で浮かぶのは「机に突っ伏す作者像」である。
当の佐太郎は次のように述べる。
「老境に入って『日日憤怒踰矩』というのは人間として恥ずかしいことだという自省が作者にはある。しかし現実として憤怒が湧くのを如何ともしがたいのだが、それは人が作者の神経を刺激するからだし、刺激を強く感じるのは高血圧、動脈硬化などの肉体的条件もあったことと思われる。ともかく、老境にはこういう老境もあり得るという現実感と、単に怒りを発散するのでなく、『しづめ』ようとする苦悩の姿が歌境を深くしている。」(佐藤佐太郎「茂吉秀歌・下」)
これが岡井隆の言う「人間の醜いことも吐露する『獣性』(自然主義の影響)」だろうか。佐太郎に顕著な「自己凝視」にもあたるだろうし、茂吉の言う「からくりのない感状表現なのだろう。
一方長沢一作は、別の角度からこういう。
「このひたむきな表白に真実がこもっている。三句字余りの『ごとくにして』が生なましい。」(長沢一作著「斎藤茂吉の秀歌」)
なおこの直後に、
・息づまるばかりに怒りしわがこころしづまり行けと部屋を閉ざしつ・
という作品もある。これも「憤怒」の歌である。
また佐太郎の作品には次のようなものがある。
・胸に吹く嵐のごとくかくありて怒のために罪を重ぬる・(佐藤佐太郎「帰潮」)
このように直喩の使い方は佐太郎のほうが巧で、スケールが大きい。
