・浅間より砂礫ふるときわが庭につづく田の水たちまち濁る・
「群丘」所収。1961年(昭和36年)作。・・・岩波文庫「佐藤佐太郎歌集」118ページ。
佐太郎の自註。
「・・・屋根や木の枝をうつ音が一瞬一瞬にはげしくなって、屋前の青田の水がたちまちに濁った。」(「作歌の足跡-海雲・自註-」)
佐太郎は実際の経験を重んじるが、観察眼がたしかである。この自註は1973年(昭和48年)ころに書かれたものだが、佐太郎はこう言う。
「10年あまり経過しているから記憶ももううすれようとしているが、歌を読むと記憶がこまかいところまでよみがえってくる。」
観察が細かいと言っても、その細かいところを全て一首の作品のなかに詰め込んでいる訳ではない。そこに取捨選択、必要なものを絞り込み、要らざるものを捨てている。「単純化」とか「捨象」といわれるが、この表現法は「アララギ」がつちかったものである。
プロレタリア短歌運動に参加した坪野哲久は「アララギ」出身で同人にまでなったが、評論等で「単純化」の妙についてふれている。
同じくプロレタリア短歌運動に参加した大塚金之助は講座派(来たる革命はブルジョア革命とする立場から資本主義分析をした)の経済学者だが、歌人としては島木赤彦の門下。愛弟子といってもいい。この大塚金之助の作品を「『アララギ』で学んだ単純化の技法が生きている」と坪野哲久は高く評価している。(坪野哲久著「昭和秀歌」)
だから冒頭の一首のような場合、佐太郎は時間の推移に従って何首も作品を作っている。「単純化」すると5句31音の定型では多くは言えないからだ。
それに加えこの一首には、「一首のなかで時間の経過を表現する」という特徴がある。佐太郎は純粋短歌論の中で「空間的・時間的限定」という言葉を使っているが、「時間的限定」は斎藤茂吉にはない佐太郎独特のものである。
時間の経過を詠み込むのは非常に難しいが、それによって一首の中に「転換」が生じる。「起承転結」の「転」、「序破急」の「破」である。これを岡井隆はこう言う。
「佐藤佐太郎の短歌を読むと『あれ?そうなるの』となることが多い。」
この「あれ?」が「転」であり「破」である。
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