自然詠と心理詠と(確かに表現する):「星座α」第6号より
「写生を突き詰めれば、象徴、幻想というのは、おのずから表れるものである。」との趣旨の文章を斎藤茂吉は書き残しています。ここでは紙数の関係でこれ以上深入りしませんが、筆写みずからが体験したことです。つまり基本は写生にあるということ。見たもの、聞いたもの、体感したものを確かに表現するのが、まず前提としてあるという訳です。
そこで今回は、自然詠、心理詠に着目してみました。
先ずは自然詠。
(疾風に木々が撓む歌)
(夕光の深く差し入る歌)
(鉢植えの黄薔薇、紅薔薇の歌)
(巨大なほおずきに似る月の歌)
(新雪の丸き斜面に動物の足跡の残る歌)
(夕あかねが薄れゆく都市の歌)
(人影の淡い冬園の曙杉の歌)
見たものを確かに捉えたもの、擬人法を使っているが言葉を飾っていないもの、作者独自の目が効いているもの。様々ですが、共通点は直接的に表現しているところです。
次に心理詠。
(来し方の良い思い出の歌)
(人には見えない心の歌)
(躊躇って問うこともなく過ごしてきた自分の生き方の歌)
(身に覚えないと言いながら互いに不問に付す歌)
(悲しみの記憶のごとき片耳のイヤリングの歌)
これも様々ですが、愚痴や不平不満、ぼやきがないのが共通点です。反省と愚痴は違うと言った人がいましたが、正にその通りで、マイナス思考からはよい作品は生まれません。人間への思いやり、信頼、愛惜。自己愛も含めてですが、そういったものが必要なのでしょう。これを佐藤佐太郎は「諦念」と言いましたが、仏教的な意味ではなく、冷静に自分に向き合うということでしょう。