岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

短歌・日本語・斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・社会・歴史について考える

なぜ写実系以外の歌人の歌集・著作を読むか

2011年09月10日 23時59分59秒 | 作歌日誌
これは僕の経験則だが、その人の読書歴が作品にあらわれるものである。語彙・表現法・ものの見方の全てに読書歴が投影される。

 人間が一生のうちに経験できろものには限りがある。そのせまい経験を補い広げる可能性をもたらすのが読書だ。直接的な経験ではないので、「追体験」という。こんな基本的なことを言うのは、自分の師匠筋の歌人の歌集や著作だけ読んで事足れりとする、或は何年経っても入門書と数冊の歌集だけを読んで自己流で短歌を詠む人もいるからだ。

 そういう人がいるのが悪いとは言わないが、それだけでは「短歌の将来」を危うくすると思う。かく言う僕も決して読書量が多いとはいえない。歌歴もほんの10年余だ。特に病気療養にはいってからは読書環境はますます悪くなっている。だが短歌には千数百年にならんとする伝統がある。いわばその末流にいるわけで、そこに如何に「新」を積むかが問題となる。それを考えるには、どうしても読書の幅を広げる必要がある。

 佐藤佐太郎が亡くなったときに、新聞の訃報記事の中で上田三四二がこう言った。

「佐藤さんは茂吉の弟子でありながら、< 小茂吉 >になることなく、独自の作風を確立した。」

 斎藤茂吉や佐藤佐太郎の読書量の多さには驚かされる。このふたりだけではない。土岐善麿の蔵書をみたときの驚きはすでに記事にしたが、総合誌で垣間見る諸歌人の書棚が質量ともに充実しているのには驚かされる。

 総合誌に書かれている論文・エッセイを読んでもそれは窺える。

 僕の読書法は、佐藤佐太郎・斎藤茂吉・島木赤彦・土屋文明・伊藤左千夫・長塚節・正岡子規と遡りながら、石川啄木・北原白秋・戦後リアリズム(近藤芳美・宮柊二)・前衛短歌(寺山修司・塚本邦雄・岡井隆)と読書の幅を広げて行った。それに歴史書(古代史から現代史まで)・哲学(ヘーゲル・マルクス)・経済学など学生時代に読んだものもさらに広がり続けている。それに短歌を詠むようになって、漢詩が加わった。これは高校時代に好んだ漢文がその基礎になっている。専門書を読む余裕のない分野はなるべく詳しい事典や辞典を買う。(これを「雑食性」と知人は呼ぶが、僕はそれでいいと思う。)そのなかで何を取捨選択するかを考えるときは、結局斎藤茂吉と佐藤佐太郎に戻る。戻るというより、二人の延長線上を考えるというのが正確なところだ。

 最近は、宮柊二・塚本邦雄にはまっている。茂吉・佐太郎と表現方法が全く違うが、どこがどう違うかを意識することによって、茂吉・佐太郎の特徴がつかめてくる。

 斎藤茂吉は「万葉の言葉をそのまま盗まずに、なぜ万葉の歌人がそういう言葉遣いをしたかを考えよ」という正岡子規の言葉を紹介しているが、そういうことは近現代の歌人にも通じる。それぞれの歌人が何故そういう言葉遣いをしているかを知るのは良い勉強になる。

 総合誌も同じである。狭い経験主義を払拭するきっかけになる。というわけで僕の書棚は満杯でリビング・ダイニング・枕もとまでに書籍があふれている。全部読んだ訳ではないが、数年後に読む必要にかられることも多い。

 それなくして「新しい方向」など見えては来ないだろう。奇を衒うだけの「妄想」と「経験が全て」という作品になってしまう。そういうものを、「ここに詩がある」などと好む人もいるが、それはその人の自由。だが僕は違う。

「もし、自分の結社と師匠筋、会員の書籍だけ読んで事足れりとする結社があったら、直ちに退会すべきである。」と岡井隆は言ったが、そういうことも「結社誌と師匠筋の著作を読めば事足れり」としている人の耳にははいらないだろう。

そういう時は「みずから求めて」書物を読むのが最もいい方法だろうと思っている。



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