「運河」2012年1月号。巻頭詠10首。(表記を一部変更した。)
・ふつふつと溢れくるもの怺えつつ静けさの中耳澄まし居り・
・誰を信じ何にすがりし結末か覚悟あれども口には出さず・
・神々の集うところや里山の頂ごしの太陽まぶし・
・楽曲の途中に転調ありしこと噛みしめながら珈琲わかす・
・柵のなか脅ゆるらしき犬の声悲しきまでに大きく響く・
・時ならぬ風にあら草揺れ始む日差の弱き道を歩めば・
・風つよく雨降りそうな日の暮にひとつの予感拭えぬはなぜ・
・庇より時おり落つる雨滴かぞえて消さん寂しさのあり・
・シーベルト・ベクレルというは人の名に由来したると聞きて驚く・
・海ぞいの町ありし跡ゆく人をあつき夕日よあまねく照らせ・
(「運河」342号)
東日本大震災を念頭に置いているが、「写実歌」としては「具体」が少なく、その意味では「変った歌」だと思う。だがこういう歌も「写生歌」だと僕は思っている。
それに「客観」と「主観」、「虚と実」など、茂吉・佐太郎の論を踏まえたつもりだ。ほかの会員と比べ「異趣味」かも知れないが。
伊藤左千夫はこういうのを好まないだろうが、島木赤彦は「概念歌」と呼んで肯定している。まあ「心理詠」と考えてもらえばいい。
斎藤茂吉は「異趣味」の作品や「概念歌」について次のように言う。
「天然顕象と我性命と相融合すといふ事は無論個人によって場合が違ふ。又同一人でも時と場合によって差がある。だから天然顕象に単純な意味意味を附して『かういふ感じしか無い』など極めてしまふのは不用意である。」(「金傀集私抄」)
「(子規の文章の引用)『文学の実験に依らざるべからざるは猶写生に依らざるべからざるが如し』・・・『空想と写実と合同して一種非空非実の大文学を製作せざるべからず。』・・・。これを見ても、客観一点張りでなかったことが分かる。」(「短歌に於ける写生の説」)
「写生を念とする歌人は、おのづから常に、真実、真といふことを心懸けてゐる。この真は、歌人の銘々の体験的なる直証(Evidenz)であるから、千差万別であり得るし、また千変万化であり得る。この流動的体験真を、『写生真』と称して、作歌態度の一つの大切な覚悟たらしめて居る。」(「短歌初学門」)
「『写生』の実行に心を潜め、『写生』を強調して説く自分の如きものといへども、この結論(=文学芸術を論ずるのに『空想』のことを除去しては論が成立しない)をば否定し得ぬのである。従って『詩は空想の芸術なり』といふ明確なる語をも否定せぬといふことになる。」(「短歌初学門」)
また岡井隆はこう言う。
「(文学としての短歌を作るにあたっての基礎事項の)一つは、歌の新しさとは何かを知ることである。・・・古代から現代までに、どのような短歌(近世までは和歌とよばれた)が作られたか、を知らないことには、自分の歌の新しさを知ることができない。」(岡井隆著「短歌の世界」)