岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

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父の戦争体験:満州でみたもの

2020年09月20日 00時56分30秒 | 紀行文・エッセイ
父の戦争体験:満州でみたもの

 父は満州で昭和2年に生まれた。母と同じく「生まれた時から戦争があった」。工専の時代の父の写真を見て驚いた。目つきが鋭く、野蛮な感じなのだ。「生まれた時から死ぬことばかり考えていた」と語ったことがある。18になれば軍隊にはいる。当然死を覚悟していたのだろう。事実同期の学生は戦死している。

 工専には入学したが、ロクな勉強はせず「機関車ばかり作っていた。」学校が勤労動員の場になっていたのだ。だから生前の父を見ても、エンジニアの面影は全くなかった。戦後、内地に引きあげてから、日本社会事業大学に入学しなおして、ケースワーカーの道を歩んだ。父の顔はエンジニアのそれではなく、ケースワーカーのそれだった。青年時代を無駄にしたことになる。

 満州には植民地の影が深かった。朝鮮人、中国人への差別が酷かった。だから終戦直後に暴動がおこり、日本人が襲われたのもむべなるかな。祖父が満鉄の図書館勤務だったから、引揚船の順番がはやくまわってきた。祖父は家族に黙って、順番を3回譲ったそうだ。

 「あの家には小さい子どもがいる」「妊婦さんがいる」こういう理由だったそうだ。祖父は頑固だったが硬骨漢だった。最近知ったのだが、治安維持法で逮捕されるような文書を満鉄図書館の地下室の「廃棄する図書」のなかにまぎれこませていた。コミンテルン関係の文書である。

 そういう祖父だったから、父も朝鮮人、中国人を差別することはなかった。終戦直後に暴動がおこっても、「あの家は親しかったから、襲撃するのはやめよう」と言われていたと話していた。

 しかし終戦後の数年間の生活は大変だったようだ。祖父は仕事を失い。父はソ連に占領された電機工場でアルバイトをした。それで一家の生計がたつわけではない。家財を路上に並べて売りに出していたそうだ。

 その数年間で父は新制大学への入学資格の年齢を越えてしまった。そこで社会事業大学に入学したのだ。

 「何でこんなひどいことになったのか知りたかった」と父は知人にさそわれて、徳田球一の演説会に言った。それが社会活動をするきっかけとなったのだろう。





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