・うつつなるこの世のうちに生き居りて吾は近づく君がなきがら・
「白桃」所収。1934年(昭和9年)作。・・・岩波文庫「斎藤茂吉歌集」180ページ。
「悲嘆録 布野に中村憲吉君を哀悼す」の小見出しと詞書がある。中村憲吉はアララギの同人で現実的作風を特徴としたが、45歳の若さで世を去った。近藤芳美の師として知られ、葬儀に近藤も参列している。近藤芳美は憲吉の死後、土屋文明に師事する。(カテゴリー「作歌・小論:近藤芳美・小論」参照)
茂吉の自註。
「中村憲吉を弔らふために布野に行って、これらの歌を作った。(=歌集では5首の連作)・・・寝棺に寝てをる中村にあふところである。これでは< われは近づく君がなきがら >といふので止めた。平福百穂にせよ、中村憲吉にせよ、普通一般の挽歌にもならぬほどの切実なものがあるので、力負けがしてなかなか出来なかった。」(「作歌40年」)
茂吉の言う通り挽歌は難しい。類型に陥りがちだし、余程の「切実さ」がなければ作品にはならない。故人がどのような人であったかを言っておしまいになってしまうこともある。二度ばかり作ったことがあるが、作ろうと思って作ったのではない。湧きでてくるように何首か出来たのだった。相手はそれほど特別な思いをいだかせる人だった。
何の感動もなかったのか、塚本邦雄は「茂吉秀歌・白桃~のぼり路・百首」の中ではとり上げられていない。
佐藤佐太郎はこういう。
「現世に生きのこっている自分は、いま死骸となって寝棺によこたわっている君に歩み近づく。内容は< 吾は近づく君がなきがら >だけであるが、その< 吾 >は現世に生きている< 吾 >であるという対照によって、幽明界を異にしたものの別れを最も深刻に現わしている。感情もないもののように行為だけを単純に荘重にいって、能の舞のような蒼古な感銘をあたえる。・・・一首の単純さを支えて統一体としているのは言葉のひびきである。」(「茂吉秀歌・下」)
僕はこの作品に佐藤佐太郎につながる二つのことを感じる。
第一は「生」と「死」という、「ニ物衝突法」である。象徴詩によく使われる技法。佐藤佐太郎もよく使った。「それを統一するのが言葉のひびき」と佐太郎は言うが、むしろ統一の媒体は「結ばれるひとつの印象」であると僕は思う。
佐太郎はその歌論の中で「二つのものの組み合わせがおもしろい」といい、別のところでは「短歌は金属の延べ棒のようなもの」と「一つの統一体」であることを述べている。
これが佐太郎門下では「短歌はひとつのことを、単純に詠む」と言われているが、より正確に言えば、「ニ物の衝突を含みながらひとつの印象を強く詠む」ということだと僕は理解している。
第二は結句を作者の動作で終わらせているところである。作者の動作を詠むことによって、対象が「われ」にぐっと近づく。他人事ではなくなるのだ。佐太郎の「純粋短歌論」にも「体験」という章が中心のひとつになっている。ただし佐太郎の場合は複数の体験を一つにまとめ、創作することもあった。そこが従来の「アララギ」との違いであり、佐太郎の作風が「象徴的写実歌」(岡井隆)と呼ばれる所以だが、その原型は茂吉作品の中にある。
象徴詩との違いは「暗喩を使わないこと」「全くの空想で作らないこと」と言って間違いなかろう。