岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

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犬のかむ骨片の歌:佐藤佐太郎の短歌

2011年08月21日 23時59分59秒 | 佐藤佐太郎の短歌を読む
・犬のかむ骨片ひとつ石のごとくころがりゐるに蠅のまつはる・

「群丘」所収。1960年(昭和35年)作。・・・岩波文庫「佐藤佐太郎歌集」116ページ。

 佐太郎の自註から。

「犬にあたえた骨片が庭土にまみれてころがっている。その石ころのようなものに秋の蠅がたかっているのは、蠅という虫のみにくさを感じさせ、やりきれないような現実の深さを感じさせる。< 石のごとく >が無ければ平凡になるだろう。」(「作歌の足跡-海雲・自註-」)

 佐太郎の自註にある通り、「自分でもどうしようもない< やりきれなさ >」を感じる。「アンニュイ」という言葉があるが、「アンニュイ・倦怠」ではあらわしきれない一首の凄絶さを感じさせる。

 初めて読んだときに(勿論、佐太郎の自註を読むずっと前だが)強烈な印象を持ったのはこの感覚である。

 徒然草にある、

「あやしうこそ、ものぐるほしけれ。」の感覚に近い。

 美しい光景ではない。だが、その光景の裏に何かがあるような印象が拭えない。こういうことを佐太郎は「象徴」と呼んだが、それを強く感じるのだ。

 言葉の選び方で言うと、「犬のかむ」「骨片」「石」「蠅」といった、乾いた語感が原因だろう。だがこう思う。

「こういうものに注目した作者はどのような心理状態にあったのだろう。」

「闇夜に袋小路に迷い込んだようだ。」

 連想が次々浮かぶ。それが佐藤佐太郎の作品の魅力のひとつでもあるのだが、言葉で表現された以上のものを感じるのだ。写生・写実と言えば「客観写生」といわれがちだが、伊藤左千夫ば言ったように、斎藤茂吉の写生は「理想派=感覚的」であり、佐藤佐太郎はそれを受け継いで「五感を活かした感覚派的作品」が多い。

 そこが土屋文明や近藤芳美・岡井隆との違いである。

 最後にもう一つ。佐太郎のこの作品と斎藤茂吉の相違点も指摘しておこうと思う。感覚的には類似点があるが、茂吉の作品の方が濃厚であり、佐太郎の作品の方が線がやや細い。

・赤茄子の腐れてゐたるところより幾程もなき歩みなりけり・「赤光」




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