岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

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齊藤茂吉43歳:白髭は苦しみの象徴

2010年08月29日 23時59分59秒 | 斎藤茂吉の短歌を読む
・うつしみの吾がなかにあるくるしみは白ひげとなりてあらはるるなり・

 「ともしび」所収。1925年(大正14年)作。

 「気苦労が多くて白髪が増えた」ということをよく耳にする。この場合、「気苦労」の象徴が「白髪」であろう。

 漢詩にも、

「白髪三千丈 憂ヒニ依リテ斯クノ如ク長シ」

というのがあるから、苦しみ・悲しみ・憂い等を歳月の長さと絡めて、白髪・白鬚に象徴させるのはよくあったにちがいない。

 この作品の場合、「うつしみ」という「歌語」と「あらはるるなり」という「文語」、5句31音の詩形に「近代短歌」らしさがあらわれているといえよう。

 火難後の生活の難儀は続いていたようだ。病院全焼後の焼け跡の生活の困難さは、さぞ大きかったことだろう。

「難儀な生活のうちに冬もいつのまにか過ぎて、・・・その頃自分の鬚鬢はめっきり白くなったのを一首にした。島木赤彦はこの一首に感心してくれたが、赤彦はそのころから胃の具合が悪かったのかも知れない。」(「作歌四十年」)とあるから、茂吉にとっては「試錬の時代」だったのだろう。

 苦しい時に、直接的に叙述しては説明だが、何かの「もの」に「心を託す」という象徴的方法をとれば、詩としての表現になるということを、この一首は教えてくれる。

 長沢一作「斎藤茂吉の秀歌」では「切実さ」をいい、佐藤佐太郎「茂吉秀歌・上」では「直観によって強くいったことに< 詠嘆 >があること」「< なり >で止まる結句の力強さ」に注目している。

 塚本邦雄の評価もほぼ同じだ。

「必ずしも、齢傾くゆゑの、避けがたい現象とは考えてゐない。作者は、< 白ひげ >を嘆くより、、< くるしみ >をかこち、苦難続発するための身のさだめを嘆く。」(「茂吉秀歌・つゆじも~石泉」)

塚本は「白ひげ」を「くるしみ」の象徴として表現にとりいれていることに、より重く見ている。塚本邦雄が斎藤茂吉から何を学びとったかを示唆するようで注目される。

 ここには西郷信綱が「みちのくの農の子」と読呼んだ斎藤茂吉はいない。火災という難儀に苦しむ作者像があるだけである。

 なお「白ひげ」を「しろひげ」と読まずに「しらひげ」と読んだのは、順当な読み方だが、「サ行の音の<さわやかさ>」と、「ア段の<あかるさ>」を考えたものだろう。少なくとも、「白髪・はくはつ・しらが」よりやわらかくて明るい。








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