岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

短歌・日本語・斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・社会・歴史について考える

「オリオンの剣」特集:「運河」336号より

2011年07月06日 23時59分59秒 | 岩田亨の作品紹介
「人間には< 飽く >といふ心理があり、日本人はそれに敏であるから、万葉調を棄てて、何かほかの変わったものに就くであらう。自分は以前からそれを望んでいる。 壇の色合いは余りホモーゲン(=画一的)で面白くないからである。自分が口語歌に同情してゐるのはその点にもある。自分はいよいよとなれば自分の歩む道よりはほかに無い。けれども何もほかの人まで自分の後へを歩んで来ることを強いようとは思はぬからである。」(「気運と多力者と」)・・・岩波文庫「斎藤茂吉歌論集」214ページ。

 これは1926年(大正15年)に発表された文章だから、歌壇が「アララギ風」に影響を大きく受けていた時期のもの。今で言えば、ライトバース、ニュウウェーヴの影響が広がっている状況の、丁度逆である。

 ではどうするか。茂吉はこうも言う。

「とどのつまりはその< 人 >があらはれるのである。」(「同」)・・・217ページ。

 今度の歌集にどのくらい自分があらわれているか、心待ちと不安の相半ばするなかで「運河」の特集号を待っていた。

 岩田亨という人間がどこまで表れているか、そういう観点で6人の批評文の抜粋と、作品をいくつか抄出する。


<< 佐瀬本雄(運河) >>

「客観的な写生の歌を三首挙げるが仮名遣いは気にならない。表現は明確で格調があり硬質の明るさを保ちつつ寂しさが揺曳していて魅力がある。・・・これからの短歌はこのように変化しながら存続していくのだろう。」

・湖につよき北風吹くときに水の中なる山影うごく・

・くきやかに影を落として静かなり鉄条網に月光が差す・

・落日のひかり背に受け舗装路に映るわが影に従いあゆむ・


<< 山谷英雄(運河) >>

「すでに岩田君は、自分の詩としての志向を見定めていよう。詩における志とは、あくまでも自分に忠実であることを第一義とする。その志のままに、歌の翼を大きく拡げて驥足(=駿馬の足)をのばして欲しい。」

・コルシカの牧童の笛思わせて窓の隙間に風の音する・

・間断のなき波音を夜半に聞き増しゆきぬべし耳の感度は・

・生前の序列そのまま墓石に大小のあり高低のあり・


<< 小畑庸子(水甕) >>

「たゆまず自己をみつめ続ける著者によって人格を与えられた物たちが、彼に何かを語りかける。そしてそこから、また新しい詩の世界が広がってゆくに違いない。著者の優れた感性と資質を裏付ける一集である。」

・たまさかに振り返るものひとつあり部屋の隅なる錆びたピッケル・

・均一に粒の大きさならされてグラニュー糖の輝き白し・


<< 松村由利子(かりん) >>

「< ますらをぶり >を思わせる、骨格のしっかりした文体をもつ作者だが、本質的な抒情はやわらかい。その情熱はあくまでも< 埋み火 >のように静かである。そして< 北欧神話 >には、孤高を保つ心意気が感じられる。」

・埋み火のごとき心よ日曜に日すがら読めり北欧神話・

・封印が解かれるようにあふれくる思いをひとは追憶と呼ぶ・


<< 八木博信(短歌人) >>

「全草どこも辛味を帯びるクレソンのように、岩田亨の全身を満たしている< 蘇るひとつ記憶 >の完全復活はいつか。無限に滲みこんでゆく雨がやがて芝を萌えたたせるように、急浮上する< 湧き来る予感 >とはまさに< 何ぞ >・・・歌の座りをよくして何ほどのものか。角を矯めて牛を殺すな。これが岩田亨のスタイルと思う。」

・クレソンを食むとき著き匂いしてまた蘇るひとつ記憶は・

・音もなく雨降り沈む芝原に立ちて湧き来る予感は何ぞ・


<<武富純一(心の花) >>

「現在、岩田さんは病気療養生活中である。だからこそ今動くのだ・・・という強い思いがこの第二歌集へ彼を駆り立てたのだろう。・・(略)・・しかしながら、この歌集には病的な匂いは全くしない。作歌への姿勢はどこまでも健全であり、その軸足がブレることもない。」

・夜明け前わが目覚め居りスクーターのエンジン始動の音聞きながら・

・雪片が尖れるとわが思うまで痛み覚えて風に真向かう・



 どうやら「僕と言う人間が< 濃厚に >あらわれている」ようだ。心情を掘り下げる、自己凝視というのも読者に伝わったようだ。批評をしてくださった方々に心よりお礼申し上げる。

 短歌作品のなかの具体的なものは、多かれ少なかれ何かを暗示、何かの象徴として言葉を選んでいるのだが、いちいち説明は必要なかろう。これが「赤光」の諸作品に見える「理想派」の斎藤茂吉、「象徴的写実主義」とのちに呼ばれた佐藤佐太郎の歌業のうえにたった、僕の積む「新」である。

 かつて「君は何を目指しているのかね」と「運河」のベテランの人に尋ねられたことがある。批評をお願いした一人が書いているように、「自分の詩としての志向を見定め」るのを自覚した歌集上梓だった。

 詩:「日本において、詩は明治以前は漢詩をさしていた。今では広く近・現代の詩型を表すばかりでなく、歌人が短歌の中で追求するポエジーをさす語でもある。」(岡井隆監修「岩波現代短歌辞典」)

 今回、写実派以外の結社の方からも多くの手紙や葉書を頂いたが、そこに抄出してある作品の少なくないものが重なっていた。人の心に残る短歌作品は、結社の壁を越えるもの。これも今回感じたことのひとつだった。 







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