岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

短歌・日本語・斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・社会・歴史について考える

関東大震災と後藤新平と

2011年06月04日 23時59分59秒 | 歴史論・資料
1923年(大正12年)の関東大震災の報を斎藤茂吉はドイツ滞在中に新聞報道で知った。「遍歴」のなかに7首震災を素材とした作品が収録されている。

「9月3日(月曜)夕刊新聞に” Erdbenkatastrophe in japan "と題して東京の震災を報ぜり・・・」

という詞書つきである。ところがこれらの作品は岩波文庫「斎藤茂吉歌集」には収録されず、9月13日(木曜)に「 電報届く" Your family friend safe "・・・」と詞書のあとの次の作品、

・体ぢゅうが空になりしごと楽にして途中靴墨とマッチとを買ふ・

だけが収録されている。(岩波文庫「斎藤茂吉歌集」96ページ)

 伝聞情報だけの作歌は弱いし、時事報告・新聞記事をなぞったような作品だからだろう。

 この海外留学の終盤は茂吉にとって最悪だった。実父・守谷傳衛門の死去の報をうけ、関東大震災による首都壊滅を知り、さらに帰りの船の中では自宅兼病院の全焼を知る。ちょうど火災保険が切れており蔵書の大半も焼け、帰国後は留学中に買った医学の専門書を売って生活費にあて、研究者としての道をあきらめて、病院再建のための金策に走りまわらねばならなかった。

 その帰国後の作品を集めたのが、「ともしび」である。その辺の事情は、岡井隆著「< ともしび >とその背景」に詳しい。「赤光」の主題が「悲し」、「あらたま」の主題が「さびし」(西郷信綱著「斎藤茂吉」による)とすれば、「ともしび」の主題は「くるしみ」である。

 ところでその震災直後の混乱のなかで、震災復興の指揮をとったのが後藤新平である。「角川日本史辞典」を引用してみる。

「 後藤新平 1857~1929(安政4-昭和4) 政治家。岩手県の生まれ。・・・ ’23第2次山本内閣の内相兼帝都復興院総裁として関東大震災の東京復興計画をたてた。・・・」

震災復興に関するものは以上のように簡略に書かれているが、詳しく調べてみると違う実相が見えてくる。


 まず第一。戦前の内務省は現在の総務省・国土交通省などの機能をあわせもった絶大な権限をもち、しかも震災直後の諸法令は国会の審議なしの「緊急勅令」としてだされた。また戒厳令も発せられた。

 当時は基本的人権という概念がなく、人権は法律により容易に制限された。関東大震災のあとの復興が迅速にみえるのは、このためである。では今の日本に戒厳令・法律によって人権制限が容易にできるようにすればよいのか。そうではあるまい。


 そこで第二。復興が迅速に見えた理由はまだある。十分な補償もなく「帝都」の復興は実施された。道路拡張、都市計画が半ば強引に行われた。内務省の権限、大日本帝国憲法の「臣民権利義務」、「緊急勅令」「戒厳令」をもってすれば、可能であった。当時の憲法に「財産権」の規定はなかったから、瓦礫除去にも所有者の承認は必要なかった。


 そして第三。帝都復興院の提言に依る予算措置は大幅に削られた。当時の政友会の主張が通ったものだが、これは戦争準備のための軍事費の確保を優先したのである。しかも実際の復興は十分な予算措置のないまま、市町村に丸投げされた。それでも「形だけの復興に4年かかった」。いわば突貫工事だが、それでも数年の歳月が必要だったのだ。後藤新平は震災前は台湾という植民地統治の中心にかかわり、その内務官僚・植民地経営の経験を背景に、生涯を通じて露骨な大陸進出を鼓吹した。(後藤新平のあだなは「大ぶろしき」)


 だから後藤新平と帝都復興院を東日本大震災の復興の典型とするのは大いに問題がある。復興がようやくなった直後にはもう満州事変が起こっていることも忘れてはならないだろう。後藤新平による「帝都復興」は「戦争への露払い」でもあったわけだ。

 ところで岩手県には後藤新平の旧宅がある。そこには大きく「後藤」という表札があったが、横に小さく佐藤栄作内閣時の与党副総裁の名の表札があった。おそらく一族なのだろう。この当時の与党こそ、現在の野党第一党である。

 この野党が国会審議の場で、後藤新平の名を出し、復興のための本部の名を政府提案の「震災復興庁」ではなく、「震災復興院」にこだわったのは案外このあたりから来ているのではないだろうか。

「時が国家権力と社会矛盾の深刻化していた時代であり、場所が帝都であっただけに、国としても存亡にかかわる打撃であった。その上、朝鮮人虐殺事件や社会運動家殺害事件も起こり、文字どおり近代史に大きな傷跡を残した。(島田修二)」(岡井隆監修「岩波現代短歌辞典」)


 無論、ヨーロッパ留学中の斎藤茂吉はこのようなことを知るよしもなかった。海路帰国の途につく前年の話だった。

参考文献・高柳光寿・竹内理三編「角川・日本史辞典、今井清一著「大正デモクラシー」、鹿野正直著「大正デモクラシー」、金原左門著「昭和への胎動」、江口圭一著「二つの大戦」。




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