・現身のわが血脈のやや細り墓地にしんしんと雪つもる見ゆ・
「赤光」所収。1912年(明治45年・大正元年)作。
この一首の勘どころは「血脈のやや細り」と、「しんしんと雪積もる」の表現だろう。長沢一作著「斎藤茂吉の秀歌」では「一首のもつ切実なひぎき」「ふるえるような生命へのいとおしみ」に注目し、塚本邦雄著「茂吉秀歌・赤光百首」では「血脈=けちみゃく」の仏教的性格と「しんしんと」に注目している。
塚本邦雄の指摘は「墓地(青山墓地)」の固有名詞をなぜ使わなかったかという点である。「青山の青と血脈の赤が鮮やかな対照をしめしたろうに」ということである。
しかしこの一首は「色彩の鮮やかさ」が眼目ではない。「血脈(けちみゃく)」=気力体力がやや弱まっているもとで、静かに「墓地に雪が積もる」のを見ている静寂が感動の中心である。そのために「青山」という固有名詞は捨象したのである。「しんしんと」の代わりに「青山墓地に」が入れば一首の趣が一変する。茂吉の表現しようとしたものとは異質なものとなってしまう。しかし、「水銀伝説」で色彩語を駆使した塚本邦雄ならではの批評ではある。「しんしんと」は茂吉の多用した語であるが、後に佐太郎が「虚語」と呼んだものの内に入り、一首の声調を整えるのに必須であるから、ここはやはり「しんしんと」のほうがいいだろう。
一首の色彩はモノクロである。そのなかに深い静寂がある。かるく病臥している茂吉の心情は、
・いくたびも雪の深さを尋ねけり・(正岡子規)
に近いだろう。
「墓地に雪つもる」が暗示的である。長沢一作の「生命へのいとおしみ」はこのような意味だろう。主観語がないのに「いとおしみ」が伝わってくる所が暗示的なのである。茂吉独特の、「赤光」ならではの感受といってもいいだろう。