日本国憲法第九条は、度重なる「解釈の変更」をされてきた。それは、主として国際情勢とアメリカとの関係でなされてきた。(「文言や論理に忠実だったのは、憲法施行後の三年間」とされる)
その「解釈の変更」は、主に二つの観点でなされてきた。
1、「自衛」という観点
Ⅰ、警察予備隊の設置
1950年(昭和25年)朝鮮戦争が始まり、在日米軍が朝鮮半島に国連軍として出動した。その軍事的空白を埋めるために、マッカーサーは「警察予備隊」の設置を指令した。「警察」という名とは裏腹に、訓練はアメリカ兵とアメリカ陸軍操典によって、号令も英語でなされていた。
Ⅱ、保安隊と海上警備隊の発足
1951年(昭和26年)に締結された、日米安保条約(旧安保)は、日本の自衛力の増補を期待していた。これを受けて「保安庁法」によって、陸上部隊としての保安隊と海上警備隊が創設された。ここで、憲法第九条の「解釈の変更」が行われた。
「『戦力』とは、近代戦に役立つ程度の装備、編成を備えるものをいう。」「『戦力』に至らざる程度の実力を保持し、直接侵略防衛の用に供することは違憲ではない」という政府の統一見解が発表された。
Ⅲ、自衛隊の創設
1954年(昭和29年)日米相互防衛援助協定(MSA協定)が締結され、政府はアメリカに対し、「自国の防衛能力の増強に必要となるすべての合理的措置」を執ることを約束した。これを受けて、保安庁、保安隊、海上警備隊を抜本的に改組する「防衛庁設置法」「自衛隊法」が公布された。
この時点で、政府の統一見解が変更される。「日本は独立国として自衛権を持っている」「従って、急迫不正の侵略に対し、自らを防衛するための必要最小限度の実力、自衛力を持つことは違憲ではない。」「核兵器、細菌兵器、化学兵器もこの範囲であれば、同様に違憲ではない。」「認められる自衛力の程度は、その時々の国際情勢や、相手の実力とで相対的に決まるもので、固定的ではない。」「憲法で禁止されている戦力は、以上の程度を超えるものである。だから自衛隊は違憲ではない。」
この様な解釈では、「戦力」を持っている国はない事になる、という批判が起こった。
2、日米安保条約との関係
Ⅰ、旧安保条約
1951年(昭和26年)サンフランシスコ講和条約、と同時に旧、日米安全保障条約が締結された。この条約では、「日本の自衛力」の「漸増」が期待されていた。
Ⅱ、新安保条約
1960年(昭和35年)。10年間の固定期限を迎えて、現行の、日米安全保障条約が締結された。そこでは「日本の自衛力の拡大が義務化され、日米双方のいずれかに攻撃があった場合
、各締約国は共通の危険に対処する。」と定められた。
ここから分かることは、「解釈の変更」は、アメリカの要請によるものであり、安保条約は「軍事同盟化」したことである。
これには、アメリカの起こす戦争に日本が巻き込まれるという批判が起こった。これが、60年安保闘争、70年安保闘争である。
しかしこれは、更にエスカレートし、「日本の国際貢献」に自衛隊を海外に派遣しべきだ。」というところまで来ている。果たしてそうだろうか。そのことについて、明日考えたい。
(続く)