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◆辞世の句 その7
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紀貫之
『手に結ぶ 水に宿れる月影の
あるかなきかの 世こそありけれ』
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【自由訳】
手にすくった水にうつる月の影は、ユラユラとしてそこにあるのかないのわからない。
人の世も、そんなあるのかないのか分からないユラユラしたものとして、ここにあるのかもしれない。
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【紀貫之】
→歌人・随筆家。三十六歌仙の1人。
905年、醍醐天皇の命で『古今和歌集』を編纂。
「和歌は、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける」で始まった序文は有名。
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◆辞世の句 その7
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紀貫之
『手に結ぶ 水に宿れる月影の
あるかなきかの 世こそありけれ』
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【自由訳】
手にすくった水にうつる月の影は、ユラユラとしてそこにあるのかないのわからない。
人の世も、そんなあるのかないのか分からないユラユラしたものとして、ここにあるのかもしれない。
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【紀貫之】
→歌人・随筆家。三十六歌仙の1人。
905年、醍醐天皇の命で『古今和歌集』を編纂。
「和歌は、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける」で始まった序文は有名。
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割り切りの気持ちも感じるし
ロマンチックでもある歌だね
今の東京に、紀貫之って多そう
世こそありけれ
で、締めくくりは強く、自分の人生が確かに実在していたのだと肯定してみせる決然とした語勢に、命の鬼気を感じます。
情景が目に浮かぶし、美しい表現ですよね。
手に掬った水自体が、ほんの一瞬の出来事でもあるし、無常で儚い現象である。そんな儚さの上で、水に影としてうつる月を間接的に見る。
この間接的な美の世界は、日本の襖越しに見る影絵の世界のようにも見えますねー。
死ぬときにこれを読むってこと自体、すごいなー。
>>>>>>>さくりば様
現実を肯定することって大事よね。それはありのまま受け入れるってことだと思う。
現状を過度に否定もしない、過度に肯定もしない、そんな態度こそ、既に人生や過去を肯定しているような気がしますね。
主観がいかにアヤフヤでユラユラしたものであるか、そんな曖昧な自分の主観も表現しているように思えます。
直接見ている月自体も、網膜にうつった像を視覚野で判別して再合成しているわけですしね。