■
禅の言葉で、「即今(そっこん)、当処(とうしょ)、自己(じこ)」という言葉があります。
これが禅の真髄と言われます。
自分も好きな言葉です。マントラ(呪文)のように唱えます。
即今、当処、自己。
言いたいことは簡単なことです。
「いま、ここで、わたしが、生きる。」
単にそれだけのこと。
でも、簡単なことこそ難しい。
簡単なことは難しく、難しいことは簡単。
言語的には矛盾しますね。だから、言語には限界がある。
即今、当処、自己。
過去を後悔してはいけない、未来を思い描いてはいけない、そんなの誰にもわからない。だから、今日なすべきことをする。
「喫茶去」(きっさこ)という言葉があります。
それは、目の前にあるお茶を、とにかく一生懸命においしく飲む。ということ。
「ありがとう」という言葉も同じようなものかと思うんです。
あれこれ考えず、見返りとかそういうものではなく、素直に飛び出てくる感謝の言葉。
それをためらわず、あっけらかんと「ありがとう」と言う。
あっけらかんと素直にそう言えるのは素敵な人です。
いいこと、わるいことは絶対的なものではありません。縁の中で変わるものです。
イエス・キリストも処刑当時は罪人として磔の刑にされましたが、いまは誰も罪人と思っている人はいません。
善悪とはそういうものですね。変わりうる。
だからこそ、疑問(「?」)が生まれたら自分で答えを出さないといけません。答えなんて、善悪なんて、いつだって変わるのですから。
智慧とは差別せずありのままを見ることです。
仏教では、それを無分別智と言いますよね。
何かに分けない、ありのままの智慧。
■
インドから中国に禅を伝えに来た達磨の逸話があります。
梁の武帝「自分は寺をこんなにもたくさん立てたし、写経もたくさんしたし、多くの僧侶を出家させた。どれだけ功徳があるのか。」
達磨「無功徳(功徳なんて何にもない)」
梁の武帝「では、最高の真理は?」
達磨「あっけらかんとして世間を超越したもの。最高とか最低とか、別にそんなものはない。」
梁の武帝「おまえは何者なのだ」
達磨「不識(しりません)」
何かをするときに利益や損得過剰を求めてはいけないし、根拠も求めてはいけない。
そこには打算が生まれます。それは無駄で不必要で余分で余計なことです。
いろんなものを自我egoで奇妙な形に変形させてはなりません。
■
『一切衆生悉有仏性(いっさいしゅうじょうしつうぶっしょう)』
という有名な言葉があります。涅槃経に出てくる言葉。
これは、「全ての生きとし生くるものは、仏性即ち、仏になる可能性を有している」と訳します。とてもいい言葉だと思います。
ただ、曹洞宗の開祖である道元はふと悩みます。
仏性が「有る」とすると、「無し」という相対的な言葉が同時に生まれる。
そうすると、ネコには仏性があるのかないのか?石ころにはあるのかないのか?
切れたミミズだとどちらに仏性があるのか?・・・
そういう問いが永遠に生まれてくる。
あるのか、ないのか・・という永遠に答えの出ない問い。常に相対的な問いです。
そこで道元は読み方を変えました。
『一切衆生悉有仏性(いっさいしゅうじょうしつうぶっしょう)』
一切は衆生なり。悉有(すべて)が仏性なり。
全世界、全存在、全宇宙が仏性である。仏である。と。
自分の行いは、すべて仏の行いであると思って生きなさい、と。
そこでは、あるかないかという相対的な問いは煙のように消えてなくなります。
全世界、全存在、全宇宙が仏性である。仏である。
わたしも、あなたも、あれもこれも、・・・・言葉で言えるものも言えないものも、すべてが仏。
■
良寛は、災難にあった友人にあてて手紙を出します。
良寛
『災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候。
死ぬ時節には、死ぬがよく候。
是はこれ災難をのがる、妙法にて候。』
→
「災難にあうときは、災難にあえばいいんです。
死ぬときが来れば、しっかりと死ぬばいいんですよ。
これが、災難を逃れるための一番いい方法なんですよ。」
■
即今、当処、自己
明日でもなく昨日でもなく、いま。
まだ見ぬどこかでもなく、ここ。
あの人でもこの人でもなく、わたし。
人の悩みは、たいていそんなとこから生まれます。
「ああ、この前のはああしておけば、今頃こうなっていたのに・・」
「ああ、明後日の仕事どうなるんだろう?将来は?老後は?死んだ後は????」
「ああ、あの人が言ったことが頭にくる。むかつく。気になる。思い出しただけでも腹立たしい・・」
そういう事に支配されてはいけません。
それはどれも、いま、でもないし、ここでもないし、わたし、でもない。
いま、ここ、わたし、をより強く感じる。
即今、当処、自己。
「いま、ここで、わたしが、生きる」ことを考えながら、柔軟に、融通無碍に、自由自在に対応していけばいいんです。
そういう風に生きていれば、日々は毎日新しく、日々は毎日が最初で、最後で、最高だと思える。
なぜこんな文章を唐突に書いたかといえば、今日は友人からふたつの「喫茶去」(きっさこ)に誘われたのです。禅語を思い出したのです。
だから、こんなこと書きました。
単にそれだけ。
日日是好日!
<参考>
○ひろさちや「知識ゼロからの禅入門」幻冬舎(2011/5)
○ひろさちや「禅がわかる本」新潮選書(1996/7)
○鈴木大拙「禅」ちくま文庫(1987/9)
禅の言葉で、「即今(そっこん)、当処(とうしょ)、自己(じこ)」という言葉があります。
これが禅の真髄と言われます。
自分も好きな言葉です。マントラ(呪文)のように唱えます。
即今、当処、自己。
言いたいことは簡単なことです。
「いま、ここで、わたしが、生きる。」
単にそれだけのこと。
でも、簡単なことこそ難しい。
簡単なことは難しく、難しいことは簡単。
言語的には矛盾しますね。だから、言語には限界がある。
即今、当処、自己。
過去を後悔してはいけない、未来を思い描いてはいけない、そんなの誰にもわからない。だから、今日なすべきことをする。
「喫茶去」(きっさこ)という言葉があります。
それは、目の前にあるお茶を、とにかく一生懸命においしく飲む。ということ。
「ありがとう」という言葉も同じようなものかと思うんです。
あれこれ考えず、見返りとかそういうものではなく、素直に飛び出てくる感謝の言葉。
それをためらわず、あっけらかんと「ありがとう」と言う。
あっけらかんと素直にそう言えるのは素敵な人です。
いいこと、わるいことは絶対的なものではありません。縁の中で変わるものです。
イエス・キリストも処刑当時は罪人として磔の刑にされましたが、いまは誰も罪人と思っている人はいません。
善悪とはそういうものですね。変わりうる。
だからこそ、疑問(「?」)が生まれたら自分で答えを出さないといけません。答えなんて、善悪なんて、いつだって変わるのですから。
智慧とは差別せずありのままを見ることです。
仏教では、それを無分別智と言いますよね。
何かに分けない、ありのままの智慧。
■
インドから中国に禅を伝えに来た達磨の逸話があります。
梁の武帝「自分は寺をこんなにもたくさん立てたし、写経もたくさんしたし、多くの僧侶を出家させた。どれだけ功徳があるのか。」
達磨「無功徳(功徳なんて何にもない)」
梁の武帝「では、最高の真理は?」
達磨「あっけらかんとして世間を超越したもの。最高とか最低とか、別にそんなものはない。」
梁の武帝「おまえは何者なのだ」
達磨「不識(しりません)」
何かをするときに利益や損得過剰を求めてはいけないし、根拠も求めてはいけない。
そこには打算が生まれます。それは無駄で不必要で余分で余計なことです。
いろんなものを自我egoで奇妙な形に変形させてはなりません。
■
『一切衆生悉有仏性(いっさいしゅうじょうしつうぶっしょう)』
という有名な言葉があります。涅槃経に出てくる言葉。
これは、「全ての生きとし生くるものは、仏性即ち、仏になる可能性を有している」と訳します。とてもいい言葉だと思います。
ただ、曹洞宗の開祖である道元はふと悩みます。
仏性が「有る」とすると、「無し」という相対的な言葉が同時に生まれる。
そうすると、ネコには仏性があるのかないのか?石ころにはあるのかないのか?
切れたミミズだとどちらに仏性があるのか?・・・
そういう問いが永遠に生まれてくる。
あるのか、ないのか・・という永遠に答えの出ない問い。常に相対的な問いです。
そこで道元は読み方を変えました。
『一切衆生悉有仏性(いっさいしゅうじょうしつうぶっしょう)』
一切は衆生なり。悉有(すべて)が仏性なり。
全世界、全存在、全宇宙が仏性である。仏である。と。
自分の行いは、すべて仏の行いであると思って生きなさい、と。
そこでは、あるかないかという相対的な問いは煙のように消えてなくなります。
全世界、全存在、全宇宙が仏性である。仏である。
わたしも、あなたも、あれもこれも、・・・・言葉で言えるものも言えないものも、すべてが仏。
■
良寛は、災難にあった友人にあてて手紙を出します。
良寛
『災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候。
死ぬ時節には、死ぬがよく候。
是はこれ災難をのがる、妙法にて候。』
→
「災難にあうときは、災難にあえばいいんです。
死ぬときが来れば、しっかりと死ぬばいいんですよ。
これが、災難を逃れるための一番いい方法なんですよ。」
■
即今、当処、自己
明日でもなく昨日でもなく、いま。
まだ見ぬどこかでもなく、ここ。
あの人でもこの人でもなく、わたし。
人の悩みは、たいていそんなとこから生まれます。
「ああ、この前のはああしておけば、今頃こうなっていたのに・・」
「ああ、明後日の仕事どうなるんだろう?将来は?老後は?死んだ後は????」
「ああ、あの人が言ったことが頭にくる。むかつく。気になる。思い出しただけでも腹立たしい・・」
そういう事に支配されてはいけません。
それはどれも、いま、でもないし、ここでもないし、わたし、でもない。
いま、ここ、わたし、をより強く感じる。
即今、当処、自己。
「いま、ここで、わたしが、生きる」ことを考えながら、柔軟に、融通無碍に、自由自在に対応していけばいいんです。
そういう風に生きていれば、日々は毎日新しく、日々は毎日が最初で、最後で、最高だと思える。
なぜこんな文章を唐突に書いたかといえば、今日は友人からふたつの「喫茶去」(きっさこ)に誘われたのです。禅語を思い出したのです。
だから、こんなこと書きました。
単にそれだけ。
日日是好日!
<参考>
○ひろさちや「知識ゼロからの禅入門」幻冬舎(2011/5)
○ひろさちや「禅がわかる本」新潮選書(1996/7)
○鈴木大拙「禅」ちくま文庫(1987/9)
人の縁とは不思議な物だなぁと感じます。
私は座禅会に通っているのですが
座禅の間 純粋に無になるということは
本当に難しく常に雑念が付きまといます。
木の葉の音や鳥の声 それらがきっかけとなり
様々な方向へ様々な想いが広がり
突然『今は座禅をしているのだった!』
と、心が行ったり来たりの繰り返しです。
それでも考えて座禅にいこうと
自らの意志で早起きをし
奮い立ったという経過が大事なんだそうです。
禅の世界ではとにかくお茶を飲む時間が
たくさんあるそうで朝起きたときから
飲むお茶が決まっていて何度となく
お茶を飲んで気持ちを切り替えるそうです。
座禅の後には贅沢なことに3杯も様々な種類の
お茶を頂きます。
次の何かを始める前にお茶を飲み
その時間を純粋に楽しむ
喫茶去 そのような言葉があるのですね。
素敵な時間ですね。
どんな人でも人としての期限は
わからないのだから
自分自身のぬくもりを感じられるよう
一日一日を大切に過ごしましょうと
ご住職が説かれていました。
なんだか深いところでシンクロしたなぁと
思いならが読ませていただきました。
禅の本 ぜひ読んでみようと思います。
コメントありがとうございます。
座禅会に通っているのですね。
自分はなかなか実践できないのですがすごく興味あります。
座禅で想念をなくすというのはたしかに難しいですよね。
自分は座禅も瞑想もしないんですが、ハードで長期間の登山をしている時は、瞑想のような無の瞬間になることは多いです。
そのとき、ほとんど操り自動人形のように勝手に身体が動いていて、何も考えてないんですよね。数時間してふと気づくと、いつのまにこんなに歩いたんだ!と思う事があります。
自然というのは、そうして人間を自然の中に溶け込ませ、無の状態にさせる力があると思います。
もともと、人間自体が自然の一部ですし、毎日寝るときは常に意識レベルを落として寝ているわけですから、ほんとうは誰もができるんだとは思うんですけどね。
自分の場合は、そうして身体を限界のレベル近くまで持っていかないと、想念がなくなることはないような気がします。
座禅をするということもさるながら、座禅会に通うということ自体が大事なんですね。
確かにそう思います。どんなものでも、継続すること、続ける事が何よりも難しい。
通い続けることが、縁をつなぐことになるということなのかもしれませんね。
【喫茶去】というのは禅語なのです。それだけ禅とお茶が親しいからこそ、そういう言葉ができたんだと思います。千利休の茶道も、もともとは禅から生まれたものだと思いますし。
富める人も貧しい人も、悟ったように見える人も煩悩にまみれているように見える人も、好きな人も嫌いな人も、禅では「喫茶去(きっさこ)」と言ってお茶に誘う。人間を分けて分別することを否定し、無分別の智でありのまま、裸と裸で人と接するような態度をこそ、禅は伝えようとしているんだと思いますね。
それは、このブログのタイトルで書いた<即今、当処、自己>という考えと通じるように思えます。
『どんな人でも人としての期限は
わからないのだから
自分自身のぬくもりを感じられるよう
一日一日を大切に過ごしましょうと
ご住職が説かれていました。』
ほんとうにその通りだと思いますね。
年寄りが早く死んで若い人が遅く死ぬというわけでもないし、善人が長生きして悪人が早死にするというわけでもない。自分が明日死ぬかもしれないし明後日死ぬかもしれない。それこそ100歳まで生きちゃうかもしれない。
それはほんの少しは自己管理できるとは思いますが(「みずから」)、大部分はコントロール不能の世界です(「おのずから」)。
だからこそ、一日を一生だと思う。というのは、医療の仕事をしている人間としては、日々身にしみて感じているところです。
天台宗の酒井雄哉(ユウサイ)大阿闍梨の「一日一生」(朝日新書)と言う本も、まさしくそういう本でした。
→
「行 -比叡山 千日回峰-」(2011-09-12)
http://blog.goo.ne.jp/usmle1789/e/698b43aeb76cef63db44740c4544e5ad
ブッダ(ゴータマシッダルタ)は人類の中で偉大な人であるのは間違いないですが、仏教を受け継いで日本で独自に発展させた人として、空海(密教)、法然・親鸞(浄土・浄土真宗)、道元(禅)の3人に関しては、とくに勉強したいなぁと常々思ってます。
ただ、普段の仕事もバタバタあわただしく、そういう自分のための勉強がなかなか進まないのが悩みでもあります。(笑) まあ、出来る限りで。一日一生と思いながら読書に励みます。
一日一生 そう思うと
一日を今よりも
もっと丁寧に生きていけるような
そんな気がします。
L・M・モンゴメリの赤毛のアンの中に
今日は終わり、明日はまだ何の失敗もしていない新しい一日がやってくる
という
とても好きな言葉があるのですが
生き方って考え方次第で
同じ人の一生でも
全く違う一生になりますよね。
日常 という慌ただしさから解放されるということはなかなか難しいです。
生きるためにすべきことが山積みですものね。
工夫して創った時間だからこそ有効に使えるのかもしれませんね。
でも今自分ができること それで充分な気がします。
お仕事、お勉強 共に頑張って下さい。
一日一生という本もぜひ読んでみようと思います。
一日一生という感覚。自分はよくこの感覚を思い出します。ここ数年は、そういう感じで日々燃焼している気がします。生きてるだけで運がいい、ついてる!と思いますね。
『赤毛のアンの今日は終わり、明日はまだ何の失敗もしていない新しい一日がやってくる』
というのはいい言葉ですね。
未来は常に未知なもので、それを運命を切り開いていくというのでしょうし、過去はある意味既知なもので、それを宿命と呼び、すべては必然だったと表現するんでしょうしね。
一日一生という本、すごく簡単な本なので拍子抜けしちゃうかもしれません。
ただ、酒井雄哉(ユウサイ)大阿闍梨は千日回峰を2度もしたお方で(Youtubeで探せば動画があると思います。)、その背景を知っているとさらにズシリと心に響きます。
飾り気のない素直な文章ですが、その簡潔な中に人生が詰まっているんだと思いますね。自分は酒井雄哉(ユウサイ)大阿闍梨の「行 -比叡山 千日回峰-」というDVDにもかなり衝撃を受けました。
そういう人格的にも人間的にも透き通っていて清らかな人を知ることは、とてもいいことだと思いますね。酒井雄哉大阿闍梨以外でも、ブッダ、キリスト、ソクラテス・・などもいつも同じようなことを感じます。