日常

エディット・ピアフ

2008-10-15 00:08:46 | 音楽
今も当直しとります。やっと仕事が落ち着いてきた。
さて、今日は何を書こうかなぁとか思って、ふと最近ミスチルの次に聞いている歌手の歌声がパソコンから聞こえてきたので、この歌手をご紹介します。

■エディット・ピアフ Edith Piaf
エディット・ピアフは、1915~1963年に生きておったフランスのシャンソン歌手です。有名な曲としては、「愛の讃歌 Hymne a l'amour」、「ばら色の人生 La vie en rose」など。
愛の讃歌は色んな人に歌い継がれている曲です。

動画を探せば色々ありますが、基本はピアフの愛の讃歌。これが基本。
ピアフ以外で最も好きなのは、美輪明宏の愛の讃歌。これは凄い。歌の概念を超えてますね。完全に歌から越境してます。 最初に自分で訳した朗読から始まり歌にうつるとことか特に好きですね。(→ピアフとはなれるけど、美輪明宏のヨイトマケの唄も、唄っているときは少し神がかってるように見える) 
あと、美空ひばりの愛の讃歌なんかも、やはりこの人は歌い手として超一流だなぁと聞き入ってしまうものです。表情とか歌うときの振る舞いとか、そのもの美空ひばり。
山口百恵の愛の讃歌も心の奥底からにじみ出た歌で、その人全体で歌っている様がかもし出てますね。哀愁とか悲しみとか辛さとか切なさとか。その感情の塊のような表情が見入ります。一般的に有名なのは岩谷時子の訳詞の越路吹雪が歌う愛の讃歌でしょうか。
どれも素晴らしく甲乙つけがたい。超一級。なんか一つの物語を追体験しているような錯覚に陥るというか、そういう歌。
ちなみに、斉藤和義が最近出した『Collection“B”1993~2007』という3枚組みのアルバムがあり、その3枚目の一番最後は斉藤和義の愛の讃歌なんですよね。これも渋い。心に染み入る。

こうやって歌い継がれているのが愛の讃歌という曲なのです。こういう風に世代を超え、情念や魂を込めながら歌い継がれていく唄ってなかなかない。それだけの磁場が、この唄にはあります。
しかも、それぞれの歌い手が自由に解釈して、自由にノビノビとした感覚で引き継いで歌う感じ。それこそ歌の中に血が流れている生命感を感じますね。生命現象の営みに近い気がします。

■琳派
話は脱線しますが、琳派ってすごく好きなのです。
風神雷神図って有名な絵がありますね。これは俵屋宗達→尾形光琳→酒井抱一→鈴木其一と、勝手に受け継がれているイメージなのですよ。この人たちはいわゆる弟子でも師匠でもなんでもなく、単に心の奥底で共鳴したものを感じたから、見て覚えたイメージで引き継いで模写してイメージを伝えていってるんです(確か、尾形光琳だけは実際の俵屋宗達の絵に薄紙からなぞって絵をうつさせてもらったはずだけど、他の人は見て覚えたイメージで模写しているはず)。

この琳派の風神雷神図のイメージから、愛の讃歌をふと思い出してしまうのです。心の奥底で共鳴したその思いだけで、勝手に先人を引き継いでいっているところ。そういう時間軸を伴って共振しあった振幅のウネリのようなもの。絵単体そのものを見て、その後にその絵がどういう流れの中に位置づけられるのかを少し引いて俯瞰的な目線でもう一度見て、そうして初めて多層の意味合いを帯びているのがわかる気がします。

ちなみに、東京国立博物館で11月16日(日)まで、尾形光琳生誕350周年記念「大琳派展-継承と変奏-」っていうのをやってます。前売り券も買ってますがまだ行けてません。みなさんも琳派に少しでも興味湧いたら見に行ってください。
琳派って日本のデザインの歴史の源流なのです。そのものを、ある対象をズバリそのまま書いているのがよい。空間バランス、あるとことないとこのバランス。そこがすごく好き。琳派のこともいつかちゃんと書きたいなぁ。日本の芸術とか考える上で、すごく大事なものがいっぱい詰まってる気がしてますんで。

■愛の讃歌
少し脱線しつつ、ピアフの愛の讃歌に舞い戻るわけですが、この愛の讃歌、タイトルが<なんかいい感じ>なので結婚式とかで歌う人とかいますが、ほんとは適切じゃないですよ。これは相当に悲しく切ない背徳的な情緒溢れる曲なのです!

作詞はピアフ本人がしてます。ピアフが、当時奥さんも子供もいたプロボクサーのマルセル・セルダンに恋をしておったのですが、そのマルセルは不幸にも飛行機事故で亡くなってしまいます。愛の讃歌の詞は、マルセルが死んでしまう前に書いていた詞とのことですが、発表し歌いだすのはマルセルの死後であり、彼女の人生にずっとこの事件は影響して、影をひいていきます。そういうマルセルとの禁断の愛に自分で終わりを告げるために歌っているような曲なのです。そういう意味で、愛の讃歌というのはなかなか背徳的な悲しい曲なのですね。ただ、その分、相当に情念がこもった曲です。


■映画
エディット・ピアフ『愛の讃歌』という映画があって、劇場で見て感動してDVDも買いました。事あるごとに見直したりしてますが、最近もう一回見て、改めていい映画だと思いました。

ピアフ役のマリオン・コティヤールは本当に名演!本人が憑依したような迫真の演技。歌うときはピシャッとしてるけど、普段は姿勢が悪くてガラが悪い感じとかね。愛の讃歌が生まれるきっかけになった、マルセルの死を聞いたときのマリオン・コティヤールの演技も鳥肌ものでした。

このDVDでは、ピアフの人生、生き様が描かれています。
ピアフは、祖母が経営する娼館に預けられ、大道芸人の父親に引き取られ、色々な場所を転々とする不幸な幼少時代をおくります。その中で、道端で歌いながら地元のオーナー見いだされ、その後ドンドンと有名人への階段を駆け上がっていきます。ただ、そのオーナーが突然死に、ピアフに疑いの目がかけられたり、波乱の人生を予感させることも色々あります。
その後、ピアフは押しもひかれもせぬ大スターになるも、彼女はずっと孤独で、周りが神格化して持ち上げていくが故の、本当の自分との乖離に苦しみます。これはいつの時代もあるんですね。
他者が神格化し偶像化した他者から見た自分のイメージと、実際の内なる自分のイメージとの狭間。お互いが相補的でいい関係性を保てばいいんでしょうが、その危うい関係性はいづれ空中分解してしまう。ピアフの辛さや孤独さ。 そういう人間臭い泥臭い感情がピアフには溢れていて、それを歌という形で具現化して、そこが世界とつながる接点なのです。 

そのピアフの悲しくも気高い人生がうまく表現されてる映画だと思います。
だから、愛の讃歌は永遠に歌い継がれていくのでしょうね。
人間が人生が、悲しく切なく痛々しく、そして同時に気高く誇り高いものだからこそ、そこに共鳴できる人は、思わずこの愛の歌を歌わずにはおれないのでしょう。そう思います。

10 コメント

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オシャレな夜 (Is)
2008-10-16 00:28:34
うわ~、
愛の賛歌が鳴り響く夜、オシャレだわ~。
仕事の疲れも吹っ飛ぶわ~。
ってか、世界観広がるわ~。
ぼくだけの狭小な世界観だけからでは、
「エディット・ピアフ」出てこないですもん!

ってか、「風の旅人」もさっそく頼んじゃいました。
来るの楽しみ。
ピカソ展も、近々、のぞいちゃおっと。
いや~、やっぱり、人は一人では生きられんとです。

(僕も、今度、見田宗介まとめます。
…最近、お休みが不定期化して、ちょいと
 ストレスフルな今日この頃。)
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オシャレ感 (いなば)
2008-10-16 10:21:26
>Is
確かにこうやって見直すと、愛の賛歌って何回書いたか分からんくらい自分で書いてますね。人生でもここまで愛の賛歌って言葉を書くことは今回を除いてもうないでしょう。

オシャレ感。
これ大事。それは比較的女性的感覚。
それを求めているわけではないんだけど、結果的に思い返すとそんな感覚っていうのがオシャレ感。
六本木ヒルズのテレビ朝日横のツタヤにあるスターバックス、近いのでよく行きますが「なんかいるだけでオシャレ~海外っぽい~」とか、広尾とか白金の町並み、いやーオシャレ~。異国~。この感覚。
中高生のとき、女子がオリーブとかキューティーとかSpringとか読んでる感覚。コーネリアスとかカヒミカリイとか、それはオシャレ感。

それがテレビでねつ造された間違ったイメージでなく、自分の実感を伴う、自分の根っこの感覚をザワザワさせるオシャレ感だとしたら、それはきっと自分が何か求めている証拠なんでしょうな。
幸福感のような、新たなエネルギーのようなものが自分が想定しなかった違うとこから勝手にニョキニョキ生まれてくる。そんな感覚。日常に潜む小さい幸福感なんですよね。そういう日常の小さなものを無数に持っていると、<すごく>幸せなんですよね。

「エディット・ピアフ」、素晴らしい歌い手ですよ。CDとかで聞いてみて下さい。あの歌声は脳味噌を振動させる感じです。世界は広い!

「風の旅人」、IS氏なら感じ入ってくれるの間違いなし!壮大なテーマを含んでいる雑誌です。写真とかもほんと奥深いんだなぁ。写真に対して別に興味なかった人も、あの2次元が立体的な質感を伴う写真な予感はするはずです。


ピカソ展、我が家はすぐ近くですんで、タイミングあえば声かけて下さい。コーヒー一杯くらい飲みいきましょう。

見田宗介、お願いしますね。気流の鳴る音、読みました。田口ランディの「根をもつこと、翼をもつこと」って本はあそこからインスピレーション受けてるんだなぁって思った。おもしろかったです。今次々読んでます。
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15%の違和感 (Is)
2008-10-16 13:18:01
ヒルズのツタヤ、できたとき行きましたよ。
たしか、佐藤可士和がディレクションに参画して
最初の出展だったんじゃないかな?
何でもオシャレになるんですね。
(サッカーの中田が経営に入ってすぐのキャラメルコーンもオシャレでした)

「オシャレ感」ってホントに大切だな~と最近つくづく思います。
ちょっと、無骨な感じに憧れて、気を遣わないのがカッコイイみないな
時期もあったけど、最近は、割と小ぎれいなのが大切かなと。
オシャレ感=丁寧=気遣いみたいなことなのかな?

いわゆる「女の子」カルチャーっていいですよね。
かつて糸井重里氏が、自分は15%くらいオカマだと言ってましたが、
あれは上手い表現ですね~
(って、糸井はやっぱり天才コピーライターですね。
セゾン的高度消費社会文化崩壊後も顕在ですね。)

松本人志も、似たようなこと言ってたかも。
本当に好きな子とは、侵犯するというのではなく、
ぎゅ~とっして、一体化したいのだと。
(映画ポニョで、ぎゅ~ってするシーンありましたね。
ああいう原的な感覚なのかな?)

なれないの分かってるし、心と体の不一致…とかって悩むほどではない
15%ほどの違和感みたいなところに、憧れの源泉があるのかも。
建築家も石上純也
(大学、ちょうどかぶらなかった先輩らしい。僕は会ったことないですが)
じゃないけど、だんだんフェミニンになってきますよね。

時間あえばお茶しましょう。いいところですねー。
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男性の女性らしさ。女性の男性らしさ。 (いなば)
2008-10-16 19:39:51
>Is
無骨な感じってのも、それはそれでかっこいいですよね。でも、それは男性的な価値観。
女性的な価値観では、そうですね。気配りとかにも近いかもしれませんね。

ぼくも「女の子」カルチャー好きです。姉がいたから、あの文化の豊穣さってすごいと思う。何気ないとこにカワイイ!っていうセンスは男子も見習わないといかんよね。

糸井重里氏の<自分は15%くらいオカマ>っての巧いねー。わしも女性感覚の要素は間違いなくあると思ってます。


松本人志の本当に好きな子とはぎゅ~とっして、一体化したいっていうのもわかります。彼は異常に風俗好きですが、やはりSEXは単純にお金で割り切るものとして、自分の中で区別したいんでしょうね。彼は基本的にSEXは不純だ!って思ってる純な人で、本当に好きな子とは一緒にいる、とか、抱きしめる、とか、ただそれでいい。って思ってるんでしょうな。そういうイビツではあるけど、純粋なところがあるから、彼は魅力があるんだと思います。


ぼくの高校時代も、武田真治、いしだ壱成って、いわゆるフェミニンな女性服しか着ない!って言ってた人がすごく人気あったし。
ドラマで言うと『じゃじゃ馬ならし』ね。観月ありさ、内田有紀、鶴田真由とか出てたやつ。あの時代。(Is氏見てたかなぁ?)

まあ、あそこまで行かなくても、男性が女性的感覚を持つってことは、それは気配りであり優しさであり、そういうものに繋がるんじゃないかとは思ってます。
逆の女性の男性らしさっていうのも似たものなんでしょう。人としての魅力に奥行きが出ますよね。正面からパッと見るとわからないんだけど、長く付き合うとその奥深さにわかるっていうかね。
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男と女から、両性と男(/女)へ (Is)
2008-10-16 21:38:32
たぶん、「男と女」っていう二項図式自体が、近代過渡期的なもので、もう既に、結構、時代ににあわなくなってきてるんじゃねぇかね~。
(「男と女」って時面自体が、フォークっぽいですね。酒と泪と…みたいな。)

(デリダ的に言えば、理性の動物=人間である以上、二項図式から逃れることはできないが、その二項図式自体を固定化せずに、絶えず、ずらして行く=「差延」的に発想して、)
僕は、「両性と男(/女)」って図式が、ポストモダン的かなと思います。
というのも、あ~、いいな~って思う女性って往々にして男っぽい!というか男度がかなり入ってる!…イメージ的には、なんとなく、宮崎駿のアニメに出てくるマダムみたいな(魔女の宅急便のオソノさんみたいな。すごい巨乳で、女性の象徴みたいなんだけど、性格はすごくサバサバしてて…、優しさと厳しさが共存してる)。…そうした、両性的な人がいる一方に、なんか不完全な性として「男」がいる。それで、「女」ってのは、その不完全な男が、その自分の不完全性を補完するように、男がねつ造した性なのではないかと思う。…だから、妙に、ザ・女な人って、僕は苦手です。男に媚びる感じ。…なんか、そんなにがんばらなくてもいいのにな~と思ってしまう。それは、男らしさを誇示する「男」もしかりです。そうした「男」が「女」を連れてるのを見ると、それは不完全な性の補完関係にあるのではないかと思う。(ナニ金に出てくるような中小企業の社長がホステス連れてるような画かな?)

だから、ポストモダンな成熟近代でハッピーになるには、
むしろ不完全な「男」は、その自分の不完全性から目を背け、「女」に逃げるのではなく、その不完全性=「男」のダメさ、くだらなさを明晰に認識し、真摯に受け止め、少しでも「両性」的な存在に近づけるように、「両性」な感じの人に敬意を表して、日々、コツコツとがんばるってのがいいのではないか?

 「両性」 ⇔ 「男」 (⇔「女」)

(…図式化するとこんな感じ?)

…と、ここまでエラソー書いてなんですが…
というか、ここまで認識を追い詰めたからこそ、なおはっきり分かってしまうのは
つくづく、自分は「男」ですね。
本当に、ザ・男って人から比べれば、
幾分かは、女性度を取り入れんとがんばってるつもりですが、
(高校の頃はフェミ服にも挑戦したりもしたつもりですが、)
まだまだ数%って感じです。
糸井さんとかは確かに15%くらい行ってる気がする!
マッキーとかもすごいね。
まあ、あとは年齢を重ねてがんばるしかないのかな?
良い感じのおじさんは、結構、おばさん化する部分があるのではないか?
立花隆さんなんかも、金丸の頃に比べれば、
そうとう今はおばさん度入ってません!?(…どうだろう?)

■(ここまで前半、まだまだ続く後半)
ドラマ…「じゃじゃ馬ならし」は見てなかったのかな~。
あまり覚えてない。(今度、日刊youtubeってみよう)
ドラマと前半の話に絡めれば、
僕としては、「元カレ」(TBS、2003)ってドラマをリライトしたい!
堂本剛の元カノが広末で、今カノが内山理名っていう設定のドラマで、
タイトルだけ聞いて、おっ!期待できるかも…
と思った私がバカでした。
まったくハズレ。
最後は結局、一人を選ぶというフツーの物語でした。

僕がタイトルから期待したのは、
一夫一婦制的な社会規範を超える感情が芽生えたときに、
それと社会とどう折り合いを付けるのかという葛藤を
どのていど悩み、試行錯誤し(時に不格好に)、
最終的にどう周囲を説得していくのか!
…みたいなことだったのに。う~む。結局、一人を選ぶのです。
ツマラン。

文化人類学の成果を見れば、
こうした、「オンリーユーフォーエバー」的なモノガミー的な
恋愛観って自明なものではない。
(…しかし、他方で、近代化してる国は、例外なくモノガミーなのです。
一夫一婦制は近代化の必要条件なのか!?)

…しかし、私の関心は”ポスト”モダンにあって、
そこでは、見田宗介的にいえば、「親密性の構造転換」が
あるわけです。
もはや、世帯割合で、いわゆる核家族は過半を占めません。
全然、標準世帯じゃない!

物語作家である以上、素人に問題の切実さで負けてはプロとは言えないと思う。
その点、繰り返しますが、「元カレ」はダメです。
ツヨポンも、広末も、内山理名も悪くないと思いますが、
脚本家(名前は言いませんが)は、あまり真剣ではなかったのではないか!?

その点、同じTBSでも「First Love」(2002)は素晴らしかった。
フカキョンも、渡部篤郎も、和久井映見の演技もいい。
なにより、脚本はさすが大御所、大石静、やっぱりプロ!
愛の現象学とでもいうテーマをキレイにまとめてました。
(…さすがに長くなりすぎるので、内容は省略。)

…長い。
最後に一言。物語作家の強度で言えば、
やっぱり、橋口亮輔は脱帽です。
最近は、「ぐるりのこと。」が評判良くて、すごくうれしいですし、
ぜひ、その前の「ハッシュ!」もどうぞ。絶対損はさせません。
「家族する」ことへの真剣さを描いたドラマが好きです。
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日本人の心にある田園風景のようなもの (いなば)
2008-10-17 01:12:06
読み応えあるレスポンスありがと!call and response.

『ピアフ→おしゃれ感→女性的感覚→男性の中の女性的なもの→男と女』

全体的にはこんな感じで移行してきましたね。
ピアフはずっと愛を歌っていた人で、『愛しなさい 愛しなさい』というメッセージが多かった。それは彼女自身が愛を成就できなかったためです。そして、その愛って、男と女という関係性を読み解くときのかなり大きなキーワードですよね。
そういう意味で、この話はブーメランのように大きな弧を描きながら同一空間上にある、通底している話だと思っています。

「男と女」に代表される、<二項対立>っていうもの自体、単に話や議論をしやすくするための表現の一つの手法に過ぎないんだよね。でも、その二項対立って、いつのまにか普遍性を帯びたもののように理解されている。そこが既にすれ違いの始まりですよね。多くのものは緩やかに連続しているものだから。
これは『田口ランディ・通崎睦美 ジョイント朗読会in法然院 「転生」』の回で、地獄・天国の話で少し触れたとこです。ほんと、二項対立で零れ落ちる大切な概念って多いですよねー。

デリダ的に言う、ずらして行く=「差延」的な発想ってのはイメージ湧きます。。それは、ぼくの中では固定化しないってことです。固定化って安定化を生んで、それはなんとなくホッとしやすい。でも、その固定化って思考を停止させる作用もあって、その副作用は結構怖くて致死的になることもある恐ろしいもの。
常に、ずらしていかないといけないっていう発想は大事だと思います。わしは、前から固定化に対しては『流動化』っていう言い方をしてます。役割の流動化とかね。

Is氏が言うように、いいな~って思う女性は男性的なとこもかなりあるんですよね。だって女性の気持ちも、男性の気持ちも分かるんですから!
そこで、『じゃあ本当に人にモテル人ってどんな人なんだ』ってときに、結局同性にも異性にももてる人ってのはすごく分かりやすいポイントだと思うんです。
Is氏が言うところの『ザ・女=男に媚びる感じの苦手な人』って、どんなにそれが洗練されても、男には好かれても女には好かれないんだと思います。それは、客観的に判定する上で、かなり分かりやすいポイントだと思う。やはり現実は嘘をつかない。

男性・女性という要素があるとしましょう。実際に男性らしさや女性らしさという言葉があるんだから、何か男性たらしめるもの、女性たらしめるもの、本質的なものがあるんでしょうね。そこは難しい。また別の話に発展しちゃうかな。

そういう男性的要素と女性的要素、人間誰しも混在しているものなのでしょう。そこが何%かっていうのが難しいバランスで、でも裏返せばそこがその人の魅力に化けちゃう。

そして、その何%っていうのも、固定化せずに流動化している方がいいんでじゃないかと思うんです。あるときは、男性98%女性2%。あるときは男性62%女性38%・・・みたいな、常に濃度変化しているような移ろいゆく状態。
それを簡単に言えば、あるときは男らしく頼りになる!あるときは女性のように繊細で儚い!みたいにね。  そういう男性性や女性性を流動化させるっていうのは相当にバランス感覚がよくないと、恐ろしく不安定な状態でしょう。でも、その世界っていうのは、自我を滅した状態。それって悟りに近いのかも。
でも、そういう自我がない人・自意識がない人って、すごく魅力的なんだと思います。

昨今は個人主義だ!個性だ!とか、自我が肥大化する方向に全てが走りすぎていて、その極端な状況が、今の世界のホコロビとして破綻してくるんでしょう。金融破綻はその象徴。

そうなると、次に向かうべき方向性って、おのずから浮き上がってきそうね。その辺を次の世代のために頭をひねって考えなきゃね。


・・・・(返事のテーマ変わるけど)
確かに、最近の立花隆は、ますます風貌がおばさんみたいになってるね笑 性別不明に確かに見えてくる!


■(ここから後半へ)
「じゃじゃ馬ならし」、学園ドラマで、確かみんなラクロスとかしてて、『ラクロスなんてお洒落~!』ってお洒落性丸出しでしたねー。制服もタータンチェックでイギリス風ですごくお洒落だったような・・・。そことフェミニンな感じがうまくシンクロしてて、内田有紀も当時はすごくかわゆいんだけど、ショートヘアーで男っぽい感じで売ってて、そこが凄く受けてたからね。
→これは、「その時、ハートは盗まれた」っていうドラマで、内田有紀は麻生早紀役だったんですけど、一色紗英とか木村拓哉とかも出てて、内田有紀は演技は当時あまりうまくなかったけど、すごく目立ってたよ。


「オンリーユーフォーエバー」とか一夫一婦制とか、その辺は純愛への憧れとか、ペヨンジュン人気とか、そういうとこにもつながるのかな。
でも、ジョンレノンとオノヨーコの関係性にみんな感じ入るものがあるわけで、一つの目指すべき形として、それはマスコミとかに植えつけられた知識と言うより、日本人の心の中に普遍的にある田園風景へのノスタルジーみたいなのと同じで、少なくとも日本人には備わってるものなのかな。この辺も一考の余地ありですな。


物語作家の橋口亮輔。注目したことなかったです。少し注目して見てみます!

わしは、実はあんまりドラマって見てないんですよー。中学高校くらいで結構止まってる。
個人的には『スクールウォーズ』と『ひとつ屋根の下』と『愛してると言ってくれ』は今見返しても大好きですねー。それ以外はチョコチョコ見てますけど、なかなか通して見てない~! レンタルビデオで借りて見直してみるにあたって、Is氏が指摘してくれた作品群は参考にします!
(レスも長くなっちゃったー)
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松っちゃんラジオ (Is)
2008-10-18 00:58:38
そいえば、
さっき松本人志の話が出てましたが…
管理人さんは、「松本人志の放送室」のラジオは、
もちろん、聞かれてます?
僕は、これのために
長年、ラジオ(付コンポ)捨てられずにいたのですが、
(…もはや、CDもMDも使わなくなってしまいました…)
最近、ニコ動で、放送後すぐにアップされるのに
気づき、そちらを愛用してます。
…最近の松っちゃんは、このラジオが一番面白いかな~。ちょっと前は松伸もよかったけど、終わっちゃったしな~。
演出しないのが一番面白いってのが、さすが!
…っていうか、松本人志は、10年に一人くらいに思ってたのも、もはや、20年に一人、すぐに30年にひとりくらいの天才になっちゃいそう…ってくらい、ポスト松本は出てこないですね~。今、面白いと思う若手も、基本的には松本の磁場の中にいるし、松本をダサイ!と思わせるようなお笑いパラダイムシフトはなかなか起きないですね。
小学校の頃、加トちゃんケンちゃんが神だったなか、ダウンタウン出てきたような衝撃って、生きてるうちにもうないのかな~?
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松本人志論も果てしなく続いちゃいそう (いなば)
2008-10-18 08:00:58
放送室は、常にじゃないけど極力聞いてますよ。今の家にラジオ機能がついているのがないので、わざわざ病院の研究室みたいなとこに行って、別の作業をしながら聞きにいってます。でも、常に聞いてるわけじゃないんですよねー。CD化されましたが、家を引っ越したらあれを買おうと思ってるんですよね。でも、車移動とかじゃないとなかなかあれを通して読むって難しい?

ラジオって、編集もないしほんと自由だし、服装も気を使わなくていいからタレントの方もやりやすそうだよねー。ただ、コウダクミみたいに発言の言葉尻をとられてバッシングされたりとか、やっぱりその余波は大きいけど・・。松本人志もあの番組はノビノビ話してるよね。ほんと、なんか仲いい人と話している雑談に一緒に参加している感じ。
松本人志に限らず、周りにいるような人でも面白い人って、もう普通の何気ない日常会話だけですごく面白い!松本はそういうことをやろうとしてるよね。 なんか、「笑わせまっせ~!」っていう肩肘はった世界じゃなくて、「いや、普通にこうやって話してるのが既に面白いじゃない。」っていう感じ。日常に溶け込ませている感じ?そこが凄い!

ポスト松本は出ないねー。松本チルドレンはみんなすごいけど、凌駕するような人ではないし・・・。
匹敵するのは爆笑問題の太田くらいかなぁ。太田の笑いは深いよね。そして、なんか笑いとか毒の中に愛があるから好きなんだよー。

返信する
続けること。引き受けること。 (Is)
2008-10-18 20:14:52
ちょっとだけ、続けますね。(ホント、終わらない…)

ポスト松本、
太田の名前を出されるとは!
確かに爆笑はオンリーワンの位置築きましたよね~。
(ボキャブラの頃は、その他大勢だったのに…)

僕は、個人的には、今の「あるある」ネタのはしりは
ふかわりょうだとおもってるんですよ。
最初、お昼の番組で、体操のお兄さんのスタイルの
見て、これは新しいなと
…ただ、やっぱり、続けることが大事なのかなと
最近、特に思います。
吉本隆明が10年やれば、なんでも食えるといってたけど、
ふかわくんは、なんかそのあと、いじられてシャウトするという変な位置に入っちゃって、
あれは、「慶応」ブランドでインテリ笑いで突っ走れば良かったのではと思います。
だから、前に一度、MCをしてた番組あって、普段のいじられふかわとは異なる、すごく生き生きしていた。

続けるのと同時に、引き受けることも大事かと。
松っちゃんって、どう考えても、最初から、
今のような「お笑い」を背負うって責任感はなかったと思うんですね。
(NSCも、浜ちゃんに誘われ、働くよりいいかって、消極的な理由だっていうし)
でも、どこでだか…(『遺書』の頃には、明らかに
引き受けていた。お笑い哲学を樹立しようと奮闘してた。)引き受けたんですね。

そうかんがえると、
太田は、インテリにお笑いを融合させようとしてるようにも感じるし、
太田はチャップリンよく出すけど、
笑いの持つ、批評性=「風刺」の部分を引き受けようとしてるのかな?
その辺は、松本よりありますね。
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笑わせるということの難しさ (いなば)
2008-10-19 01:42:40
じゃあ、わしもちょっとだけ・・・(なかなか終わらない)

ボキャブラのときは、当事の海砂利水魚と同様、爆笑問題って玄人受けはしていたけど、ネプチューンとかに比べるとそこまで目立ってなかったからね。でも、Is氏も同様だと思いますが、当時から太田や有田の才能には注目してた(くりぃむしちゅーは熊本の同郷ってのもある)。

「あるある」ネタのはしりはふかわりょう!!
これは、実はわしも過去のブログで触れてるんですよー!

******************
2008-07-28
「この写真がすごい2008」→松本人志→何故かふかわりょう
http://blog.goo.ne.jp/usmle1789/e/497e68fa06d970f2b7d56bc2d21d717c
******************

大学受験の頃初めて東京に大学受験とかで来て、夜中の深夜番組が恐ろしく充実しているのに衝撃を受け、当事はココリコやふかわりょうが深夜枠では抜きん出てました。 ふかわりょうは相当斬新だったし、当事は相当キレがあったのに・・・
「ミツバ学園中等部 入学案内」って本も、丁度わしが大学に入学した10年前!に出て、天久聖一、タナカカツキの伝説的本「バカドリル」の流れに似たものを感じたものですよ。

そういう意味で、Is氏が言うような続けること。を彼はしなかったから、ああいう一言ねたは何がなんだかわからんというか、一本の筋(基本形みたいなもの)がなくなっちゃったんですよねー。

松本も、太田も色んな変容を重ねながらも、彼らが追求する笑いを、軸はぶれないで同じテンションで続けてるからね。

太田は文化人寄りの笑い、ウィットに富んだ、時事ネタを交えた笑いは本当に巧い。Is氏のいう風刺性というのは、たけしに似たところはあるねー。
北野たけしは芸術性を映画に向けたけど、太田はあの文学・哲学性はどこに向けるだろうか?個人的にはアカデミズム・学問に向けて欲しいと思ってるのよね。大学や学問をもっと身近で面白くしたい!とわしは思っているので、太田が笑いの方から学問に擦り寄ってくれれば、その境界部分で協力できるなぁって思ってる。実際、彼はNHKで報『爆笑問題のニッポンの教養』っていうのをやっていて、今後の方向性に期待してる。政治とかにはいかないだろうしね。

松本人志も大日本人の映画やったりしていて、僕ら松本チルドレンとしては松本人志がどういう方向に進むのか注目してます。 個人的には「寸止め海峡(仮題)」とか、「一人ごっつ」とか、「ビジュアルバム」とか・・・あの延長上にある極限の世界を覗きたい!ってのはあるんだけどねぇ。笑いの次のステージというか。

それが、Is氏がいうところの<笑いを引き受ける>っていう世界の最終形だと思うんだよねー。太田もたけしもさんまも紳助もタモリも・・・笑いの極限には行ってないし、今後もそこを引き受ける気はなさそうだから。


俺はほんと純粋に小学生時にガキの使い見て依頼の純粋なお笑いファンだから、あえてお笑いを批評精神で見てるわけでもなんでもなく、単純にケラケラ笑ってみている善良なお笑いファンなんだけど笑(なんかお笑い好きの人で、妙に若手芸人に駄目出しというか、面白くない!とか評論家ぶる人もいるんですが、僕はああいう姿勢はあまり好きではないのよね。基本的にお笑い芸人を目指した時点で、既に全員リスペクトの対象だから・・・。変な批評で彼らの心を折りたくない!)。

日常にも、笑いって大事だよね。
色々小難しいこと言っても、毎日ケラケラ笑って過ごせる日々って、これ以上の幸福感はないもの!!
人を笑わせるってすごく難しいし、ほんと高級なお仕事だと思ってる。すごくリスペクトしとります。
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