ふと、夕陽を見た時、「夕焼け小焼け」の童謡が脳をよぎった。
その歌詞を改めて思い出したら、当時はメロディーだけで感じていた童謡が深い世界を唄っていることを感じた。
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「夕焼け小焼け」
作詞:仲村雨紅
作曲:草川信
1
夕焼け小焼けで 日が暮れて
山のお寺の 鐘が鳴る
お手々つないで みな帰ろう
からすといっしょに かえりましょ
2
子供が帰った 後からは
まるい大きな お月さま
小鳥が夢を 見るころは
空にはきらきら 金の星
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1番は、夕陽という自然のリズムと同期して、都市と山(自然)の間にあるお寺が、カネを鳴らしてメロディーを同期させる。それは一種の自然と人間のハーモニーのようなものかもしれない。
夕陽のような自然のリズムと、都市と自然の間にあるお寺のリズム。
そのハーモニーを感じ、子どもたちは手をつなぎながらそれぞれの家に帰る。それは、人間だけではなくカラスという自然の動物と共に帰る。
カラスは、今はゴミ置き場を漁る動物として嫌がられているけれど、この歌では人間同士が手をつなぎ、人間と動物が手をつなぐ象徴としてカラスが出てくる。
カラスは黒い。訪れる闇の世界である夜の象徴か?
2番は、昼と対比して夜が書かれる。
夕日は、昼と夜の間をつなぐ象徴的な存在。
そして、こども自体が人工的な都市世界と自然世界との間をつなぐ象徴的な存在でもある。
こどもが家に帰ることは、人間の生活、つまり都市生活の1日の終わりを示す。
自然の流れは、1日1日を朝昼夜で循環してグルグル回している。
その大きなリズムの中から、人間は出られない。
ただ、その自然を排除しようとしたのが都市である。
24時間、蛍光灯や電飾の世界で、夜を昼へ変えながら生きているのが都市。
そんな過剰な都市がなかった時代、1日の営みが終わり、人間が眠りにつくとき、夕陽の代わりに月が出る。
人間だけではなくて小鳥のような様々な動物も夢の世界に行く時、空を見上げると無数の星が僕らの眠りを静かに見守っている。
こうして、「夕焼け小焼け」は僕らの存在の前提となる大きな自然のリズムを、メロディーやハーモニーとして唄う。
1番が都市と自然、人間と地域の共存、人間と動物など。
子供は都市と自然の間。夕日は昼と夜の間。
2番は昼の世界である都市と対比した、夜の静かな自然世界。
こういう世界を包み込みがら、圧倒的な自然のリズムを唄っているように感じられる。
「夕焼け小焼け」は、メロディー単独だけで郷愁を誘われていたけど、こうやって大人になって歌詞を読んでみると全く違う印象を受ける。
僕らの脳へ「夕焼け小焼け」が「懐かしさ」として呼応してくるものは、都市世界から排除されようとして無意識に抵抗している、「人体・身体・からだ」や「こども・こども性」という、自然そのものが持つ原始的な記憶との呼応なのかもしれない。
その歌詞を改めて思い出したら、当時はメロディーだけで感じていた童謡が深い世界を唄っていることを感じた。
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「夕焼け小焼け」
作詞:仲村雨紅
作曲:草川信
1
夕焼け小焼けで 日が暮れて
山のお寺の 鐘が鳴る
お手々つないで みな帰ろう
からすといっしょに かえりましょ
2
子供が帰った 後からは
まるい大きな お月さま
小鳥が夢を 見るころは
空にはきらきら 金の星
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1番は、夕陽という自然のリズムと同期して、都市と山(自然)の間にあるお寺が、カネを鳴らしてメロディーを同期させる。それは一種の自然と人間のハーモニーのようなものかもしれない。
夕陽のような自然のリズムと、都市と自然の間にあるお寺のリズム。
そのハーモニーを感じ、子どもたちは手をつなぎながらそれぞれの家に帰る。それは、人間だけではなくカラスという自然の動物と共に帰る。
カラスは、今はゴミ置き場を漁る動物として嫌がられているけれど、この歌では人間同士が手をつなぎ、人間と動物が手をつなぐ象徴としてカラスが出てくる。
カラスは黒い。訪れる闇の世界である夜の象徴か?
2番は、昼と対比して夜が書かれる。
夕日は、昼と夜の間をつなぐ象徴的な存在。
そして、こども自体が人工的な都市世界と自然世界との間をつなぐ象徴的な存在でもある。
こどもが家に帰ることは、人間の生活、つまり都市生活の1日の終わりを示す。
自然の流れは、1日1日を朝昼夜で循環してグルグル回している。
その大きなリズムの中から、人間は出られない。
ただ、その自然を排除しようとしたのが都市である。
24時間、蛍光灯や電飾の世界で、夜を昼へ変えながら生きているのが都市。
そんな過剰な都市がなかった時代、1日の営みが終わり、人間が眠りにつくとき、夕陽の代わりに月が出る。
人間だけではなくて小鳥のような様々な動物も夢の世界に行く時、空を見上げると無数の星が僕らの眠りを静かに見守っている。
こうして、「夕焼け小焼け」は僕らの存在の前提となる大きな自然のリズムを、メロディーやハーモニーとして唄う。
1番が都市と自然、人間と地域の共存、人間と動物など。
子供は都市と自然の間。夕日は昼と夜の間。
2番は昼の世界である都市と対比した、夜の静かな自然世界。
こういう世界を包み込みがら、圧倒的な自然のリズムを唄っているように感じられる。
「夕焼け小焼け」は、メロディー単独だけで郷愁を誘われていたけど、こうやって大人になって歌詞を読んでみると全く違う印象を受ける。
僕らの脳へ「夕焼け小焼け」が「懐かしさ」として呼応してくるものは、都市世界から排除されようとして無意識に抵抗している、「人体・身体・からだ」や「こども・こども性」という、自然そのものが持つ原始的な記憶との呼応なのかもしれない。
そうそう。
「カラスが鳴いたら帰りましょ」って歌もありますよね。
今は、生ゴミをあさる存在としてしか思われていない!
夕方から朝の鳥へと変化したのは、都市型世界へのカラスなりの適応なのかな。
カラスは、ゴキブリと色も似ていて、なんとなく生命力強くどこでも生きていきそうな気がする。
近代で増えたせ精神疾患を扱う精神科医が、PHSの電磁波がならす人工的なカラスの音で起きるってのは
何重にも入り組んで不思議な世界です。
もともと、日本人は鳥の声や虫の声に季節の移り変わりや時間の流れを見いだしていたし、
都市ではそういう虫や鳥などの生き物の声(メロディー)が聞こえなくなったのは悲しいことです。
都市と自然のあり方については、今後も考えていきたいテーマだなぁ。
確かに、クラシックは「人間」を唄っていますね。人間が持つ悲劇や喜劇。
民謡や唱歌は、僕らが生まれ死んでいく「自然」という、存在の根底を唄う。
どちらも、言語という人間が生み出した発明品を介さず、
メロディー、リズム、ハーモニー、という、
音波という波動そのもので人体の色んな場所を揺らしてくる。
音楽はすばらしい。
ただ、同時に狂気に誘う怖い力もあるので(ヒトラーはワーグナーを愛した)、
その音楽が持つ根源的な諸刃の剣の力も、時に意識してしまうことがあります。
今や単体で
朝焼けにつんざくのだから!
隣の席、いつも朝から机に突っ伏して寝ているサイコドクター
精神的に参っているのやもしれん
しかし、彼女のPHSの呼び鈴が
朝からカラスのカアカア鳴く音であるのをきくたび
抑えがたい苛立ちにわたしは見舞われる
つまらぬひとコマですが
ここにもまた
「そもそものカラス」が夕焼けの中にあることを確認します
しかし果たして、夕焼けの中のカラスに親しんできた試しがあったかと思い至る
この歌を唱歌として教わり
メロディーとともに自然の圧倒的なリズムは
何連かの絵として我々に沁み入っているのだね
唱歌って、こういう役割があるのか‐
昨日、内田光子リサイタルに行ってきたんだ
クラシックは、人間に近い気がする
自然の圧倒的なリズムの中で
それでも劇的な現象になりえる「人間」を唄う
民謡や唱歌は「自然」を唄う