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大山祇神社小考

2018-12-09 22:15:49 | 日本史
大山祇神社は愛媛県今治市大三島町宮浦の神社で伊予国(愛媛県)一宮であり、伊豆の三島大社と並び、全国にある大山祇神社の総本社。

同時に発生したとは考え難く、どちらかがどちらかの流れを汲むと考えるのが普通だと思います。伊豆諸島の開発に伴い伊豆の三島大社が先だという説も有力のようですが、筆者は伊予の大山祇神社が先だろうと思っています。本人としては地元の人間の贔屓目のつもりはありません。

というのも伊豆の三島大社は伊豆の三島の開発に伴い成長したという話なのですが、伊豆諸島のどの島が三島なのか見えてきません。比較的大きく古い(縄文時代からと言われる)歴史を持つ島は大島・三宅島・新島・八丈島であり、これにより小さな利島・神津島・御蔵島を加えて伊豆七島、他に青ヶ島、式根島といった島々もあって、伊豆諸島を三島と呼ぶ必然性があるでしょうか?伊豆諸島を三島と呼ばないのであれば、三島大社を三島と呼ぶ理由は無くなります。また、三島大社・伊豆国府があるあたりは、駿河東端にほど近く、伊豆諸島といった島に関心を払うような位置にありません。伊豆諸島は太平洋上に浮かび、交易の中継点として重要な島でもありません。三島大社が崇敬を受けるようになった主因は、正に鎌倉幕府の初代征夷大将軍源頼朝の挙兵の地となった偶然に拠るのであり、頼朝に支持されたから神社として成長したのでしょう。

伊予の大山祇神社にはこうした契機がありません。源氏・平氏に支持され、国宝・重要文化財の指定をうけた日本の甲冑の約4割が集まっていると言いますから、後の村上水軍にも関係ないはずです。そう考えると、畿内から九州を経て大陸に向かう途中の当地に元々それなりに権威ある神社があったと考えるのが妥当だと思われます。厳島神社に似る事情でしょうか。

大山祇神社の鎮座する大三島は古くは御島(ミシマ)と記されたようです。これが三島と記されるようになっただけでしょう。その理由としては、後の三島村上氏に因む可能性も考えましたが、鎌倉時代に頼朝に支持された三島大社に倣った可能性が高いようにも思います。三島大社の方が三を使った理由はそれこそ漢字表記の揺れなのでしょう。音が同じで漢字が違う例は日本において枚挙にいとまがありません。大をつけたのは三島大社に対し本家をアピールする意図があったようにも思えます。いずれにせよ、当地に三つの島がある訳ではありません。

『釈日本紀』(『伊予国風土記』(逸文)越智郡御島の条)によると、大山積神は百済から渡来して津の国(摂津国)の御嶋に鎮座、のち伊予国に勧請されたそうです。摂津国の御嶋は諸説あり、三島鴨神社または鴨神社の何れかとされます(以上、ウィキペディア「大山祇神社」2018/12/09)。

おおやまづみは和語ですから、本当は百済から渡来していないフシがあるように思いますが(当時としては箔をつけた可能性があります)、いずれにせよ摂津の御嶋に源流があるようです。畿内から九州~大陸のルートにある大三島に分社が出来、その後本社のようになったと考えて不思議はありません。海洋系の神社としては住吉神社もあって、その住み分け等知識はありませんが、本家の摂津御嶋は特に成長する余地も無かったのかもしれません。

三島鴨神社は淀川の川中島(御島)に祀られていたと言います。摂津鴨神社は川から離れており、御島と名がつく理由が無いように思います。

>近年の研究では、三嶋神は「御島神」すなわち伊豆諸島の神を意味するとして、上記2説とも後世の付会とする見方が有力視される。この中で、噴火の盛んな伊豆諸島で原始的な造島神・航海神として祀られたのが「ミシマ神」の始まりであるという。そして「ミシマ」の音から、後世に他の神に結び付けられたとも推測されている。(ウィキペディア「三嶋大社」2018/12/09)

『日本三代実録』貞観6年(864年)2月5日条(神道・神社史料集成参照)。
『類聚国史』16(神祇16神位4) 貞観10年(868年)7月27日条(神道・神社史料集成参照)。
『延喜式』26(主税上) 出挙本稲条(神道・神社史料集成参照)。
『日本文徳天皇実録』斉衡元年(854年)6月26日条(神道・神社史料集成参照)。


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