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志賀高穴穂宮(近江)の重要性と佐紀盾列古墳群の関係性:古墳時代史②

2019-05-08 15:00:26 | 日本史
五社神古墳(左上)・佐紀石塚山古墳(下中)・佐紀陵山古墳(下右)・佐紀高塚古墳(最下)(国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成)Sakitatenami kohungun aerial 2.jpg

志賀高穴穂宮(近江))景行天皇は諸国を巡幸・戦争して回ったフシもあって、その一環で最後に志賀高穴穂宮に皇居を定めたようです。志賀高穴穂宮は琵琶湖南西岸の滋賀県大津市穴太(あのう)の地のようで、古代史でもほぼ注目されませんが、瀬田川の水運で瀬戸内海から九州~半島~大陸に通じ、北に向かえば北陸(越)、東に向かえば東海・東山・関東と交通の要衝とも言える地だと思います。成務天皇はここを根拠に「武内宿禰」の補佐を得て、国の境を定め、国を開いたそうです(古事記序文で称えられています)(国造制と関係あるかもしれません)。仲哀天皇即位時の皇居もここだったと考えられ、ゆえに神功皇后もこの辺りにいたとも考えられます。そう考えると(神功皇后の重要性を踏まえると)、この決定が後々大きな意味を持ったと考えられます。神功皇后の陵が結局佐紀盾列古墳群で成務天皇の陵と同じ場所にあるのもこれで理解出来ます。つまり佐紀盾列古墳群とは志賀高穴穂宮(近江)に関連して造営が始まった古墳群なのでしょう。仲哀天皇は直ぐに九州に移転しますが、神功皇后の九州における政府軍に対して忍熊軍は東国の兵を動員して対抗します。近江に皇居を置くことによって東国との連絡が高まった事情がありそうな気もします。

佐紀盾列古墳群古墳群の比定(東は年代的に倭の五王との関連で理解。別記事参照)

西(山陵町・佐紀町):佐紀陵山古墳(八坂入媛命墓;4世紀末?:墳丘長207m)→佐紀石塚山古墳(播磨稲日大郎姫墓:4世紀末頃?:墳丘長218m)→市庭古墳(高城入姫命墓・5世紀前半・墳丘長253m)

関連古墳:宝来山古墳(成務天皇陵:4世紀後半:墳丘長227m)

北西端(山陵町):五社神古墳(神功皇后陵:4世紀末:墳丘長275m)

東(佐紀町・法華寺町):コナベ古墳(仁徳天皇皇后磐之媛命陵・5世紀前半・墳丘長204m)→ウワナベ古墳(履中天皇妃葛城黒媛墓・5世紀中頃・墳丘長205.4m)→ヒシアゲ古墳(允恭天皇皇后忍坂大中姫陵・5世紀中葉-後半・墳丘長219m)

佐紀陵山古墳)4世紀末の建造ともされるようですが、一方で前後関係で最初期の大古墳でもあるようです。そう考えるとまず末は有り得ないような気もしますが、その被葬者は景行天皇妃の八坂入媛命としておきます。景行天皇の当初の皇后は播磨稲日大郎姫であり、その崩御後に皇后になったとされます。成務天皇・五百城入彦皇子(子に品陀真若王(応神天皇の皇后・仲姫命の父))の母で、成務天皇紀に皇太后になったとありますから、割合、後まで存命しています。成務天皇が佐紀盾列古墳群に陵を造ったと考えておきます。

佐紀石塚山古墳)佐紀陵山古墳や宝来山古墳の後の建造とされます。特徴としては佐紀陵山古墳の北西方向に密接して建造されていることです。神功皇后の治世に仲哀天皇の系譜に繫がる播磨稲日大郎姫墓を改装して建造したと見ます。更に北西に神功皇后陵五社神古墳がありますが、その並びに意味があるんでしょう。他に応神天皇の皇后の祖父として八坂入媛命の子の五百城入彦皇子も考えられるかもしれませんが、やや根拠に欠けるような気もします。

宝来山古墳)佐紀盾列古墳群古墳群に葬られたとされる成務天皇の真陵だと考えます。佐紀陵山古墳→佐紀石塚山古墳の間の4世紀後半の建造とされ、成務天皇の没年からやや時期が下りますが、佐紀盾列古墳群古墳群に含まれる範囲の古墳で時期と格を考えると、宝来山古墳しかないと考えられます。周濠が同一水面で墳丘を一周する古墳としては初期事例で、垂仁天皇陵に治定される立派な古墳のようです。土器編年等による年代の推定は絶対年代としては目安的なものです(同一古墳群内における)前後関係は尊重すべきですが)。奈良県奈良市尼ヶ辻町字西池。

神功皇后陵)宮内庁により奈良県奈良市山陵町にある狹城盾列池上陵に治定されており、遺跡名は4世紀末頃の築造と推定される五社神古墳で墳丘長275メートルの前方後円墳です。祭祀(主に中期古墳で見られる)の実施が初期事例で、その大きさは全国11位の巨大古墳です。神功皇后の皇居は磐余若桜宮ですが、大和の当時の古墳群が造営されていた地域に葬ったまでなんだろうと思います。女性皇族が多いと見られる佐紀盾列古墳群において盟主墳と言える存在だと思います。

東の三陵・西の市庭古墳)似通った大きさの三陵が年代順に並んでいます。別記事で検討しますが、倭の五王の時代の皇后陵だと考えます。西の市庭古墳も同様に応神天皇妃の高城入姫命を挙げておきます。大きさがやや大きいですが、応神天皇関連人物は大きい傾向にあります。

成務天皇の治世と国造制に関して言えば、またいずれ考察するかもしれません。


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3 コメント

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成務天皇と国造の設置 (管理人)
2019-05-23 09:07:19
記紀によると成務天皇の治世に大国・小国の国造を定め、国々の堺、大県小県の県主を定めたらしい。大臣が「武内宿禰」(の父の(葛城)襲津彦王/沙至比跪王だと思いますが)。古事記序文では崇神天皇の祭祀、仁徳天皇の善政、允恭天皇の氏姓改革に並ぶ偉業なのだそうです。志賀高穴穂宮は纒向(遺跡)から移っていて日本史上知られざる大きな影響があった気がします。日本武尊/仲哀天皇/神功皇后/応神天皇の越・白鳥伝説・敦賀・気比との関連にも注目。最初に志賀高穴穂宮に皇居を移し、子息が多く地方を巡幸した景行天皇も要注意かと思います。
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原初にせまる?佐々木考 (管理人)
2019-05-23 09:44:01
佐々木(日本姓氏語源辞典 https://name-power.net/fn/%E4%BD%90%E3%80%85%E6%9C%A8.html)>滋賀県近江八幡市安土町常楽寺の沙沙貴(ササキ)神社の付近(旧:佐佐紀(ササキ))から発祥。奈良時代から記録のある地名。地名は「狭狭城」、「佐佐貴」、「篠笥」、「大雀命」、「大鷦鷯尊」とも表記した。・・・場所柄、佐紀盾列(さきたたなみ)古墳群との関係が気になります。佐佐紀は佐紀(先か)に関係する地名なのかもしれません。佐に関しては佐久間が佐+隅/久万で佐倉が桜(農業の開始を告げることで重視されたとか。神功皇后の宮が若桜宮(続いて応神天皇が使用したと見られる))に通じ、佐+倉で佐はすけ、たすく等とも言われます。佐紀の地を佐くのが佐々木の地の可能性が考えられます。仁徳天皇は大鷦鷯尊(おほさざきのみこと)と言い、これは大佐々木の意味でつけられたのかもしれません。応神天皇は宇治に関心が深かった感じがあって、開発を進めたところがあると思います。大鷦鷯尊は自称じゃないはずなんですよね。説話は後付で本来の意図を外した可能性も。後、ミササギが御+ササキに読めるのが気になります。佐紀盾列古墳群に関係が深いと見られる志賀高穴穂宮の成務天皇の時代にミササギの用語が成立した可能性ってないんでしょうか?百舌のミサンザイ・ニサンザイも同じく関係しそうです。佐をそういうふうに解するのは特異に見えるかもしれませんが、筆者は沖縄の与那覇・我那覇も那覇に与するとか、我が那覇のような地名・人名に違いないと思っています。伊も聖職者を表す伊ではないかと。漢字は表語文字でもあって、古代における和語と外来語の混入の可能性は普通に考慮されていいんでしょう。コジツケ朝鮮起源論のようなものから脱却して、もっと普通に日本人から見て外来語を探せるような気もします。
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沙沙貴山君 (管理人)
2019-05-23 10:22:36
ウィキペディア「沙沙貴山君」(2019/5/23)参照。>孝元天皇の皇子である大彦命を始祖とする阿倍臣一族とされる。平安時代まで蒲生・神崎両郡の大領として近江国(現在の滋賀県)に勢力を持っていた。>『日本書紀』の顕宗天皇の条に、「狭々城山君韓袋宿裲」(ささきやまぎみからふくろのすくね)が雄略天皇による市辺押磐皇子謀殺に荷担した罪で捕らえられだが、顕宗天皇は許しを請う韓袋宿裲を殺すに忍びなく、これを死刑とする代わりに身分を落とし(みささぎのへ)とし、全ての官籍と狭々城山君の姓を剥奪の上で山部連の下に置いた。>谷川健一は「であったから狭狭城を名乗ったのである。このことから雀部(さざきべ)という部民は、つまり天皇や皇后の御陵の番人を指したと考えられる」と記している。・・・防人(さきもり)(筑紫・壱岐・対馬 (つしま) など北九州の防備に当たった兵士)(他にヒナモリ=夷守が同様の用語と言われます)の用語を踏まえると、やはりサキ=先と普通に解するべきとは思います。だとするなら佐紀盾列古墳群のサキとは大和盆地の先か(多分こちらで大和盆地南部勢力から見て先なのでしょう)、志賀高穴穂宮から見て先という意味なんでしょう。佐紀盾列古墳群はそれ以前の山辺の道の古墳群より大きなものが密集しており、これが盾列(たたなみ)の由来になったとも言います。ですから先(佐紀)=陵の意味が成立して佐サキが墓守となり、雀部(ささきべ)が御陵の番人を意味するようになったとも考えられます。とすれば元々はミササギは墓守の方を表したのかもしれません。墓守と言っても天皇陵を守る墓守です。仁徳天皇のオオサザキも大墓守になってしまいますが、それではということで別の解釈を後付けしたのような。まぁミササギ=墓守は詳細に検討していませんが、佐々木が佐先(佐紀)に関してはかなりの自信があります。岩手県、宮城県に集中するってことのようですから、多賀城とか関連で防人のバリエーションの可能性があります。
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