五社神古墳(左上)・佐紀石塚山古墳(下中)・佐紀陵山古墳(下右)・佐紀高塚古墳(最下)(国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成)Sakitatenami kohungun aerial 2.jpg
志賀高穴穂宮(近江))景行天皇は諸国を巡幸・戦争して回ったフシもあって、その一環で最後に志賀高穴穂宮に皇居を定めたようです。志賀高穴穂宮は琵琶湖南西岸の滋賀県大津市穴太(あのう)の地のようで、古代史でもほぼ注目されませんが、瀬田川の水運で瀬戸内海から九州~半島~大陸に通じ、北に向かえば北陸(越)、東に向かえば東海・東山・関東と交通の要衝とも言える地だと思います。成務天皇はここを根拠に「武内宿禰」の補佐を得て、国の境を定め、国を開いたそうです(古事記序文で称えられています)(国造制と関係あるかもしれません)。仲哀天皇即位時の皇居もここだったと考えられ、ゆえに神功皇后もこの辺りにいたとも考えられます。そう考えると(神功皇后の重要性を踏まえると)、この決定が後々大きな意味を持ったと考えられます。神功皇后の陵が結局佐紀盾列古墳群で成務天皇の陵と同じ場所にあるのもこれで理解出来ます。つまり佐紀盾列古墳群とは志賀高穴穂宮(近江)に関連して造営が始まった古墳群なのでしょう。仲哀天皇は直ぐに九州に移転しますが、神功皇后の九州における政府軍に対して忍熊軍は東国の兵を動員して対抗します。近江に皇居を置くことによって東国との連絡が高まった事情がありそうな気もします。
佐紀盾列古墳群古墳群の比定(東は年代的に倭の五王との関連で理解。別記事参照)
西(山陵町・佐紀町):佐紀陵山古墳(八坂入媛命墓;4世紀末?:墳丘長207m)→佐紀石塚山古墳(播磨稲日大郎姫墓:4世紀末頃?:墳丘長218m)→市庭古墳(高城入姫命墓・5世紀前半・墳丘長253m)
関連古墳:宝来山古墳(成務天皇陵:4世紀後半:墳丘長227m)
北西端(山陵町):五社神古墳(神功皇后陵:4世紀末:墳丘長275m)
東(佐紀町・法華寺町):コナベ古墳(仁徳天皇皇后磐之媛命陵・5世紀前半・墳丘長204m)→ウワナベ古墳(履中天皇妃葛城黒媛墓・5世紀中頃・墳丘長205.4m)→ヒシアゲ古墳(允恭天皇皇后忍坂大中姫陵・5世紀中葉-後半・墳丘長219m)
佐紀陵山古墳)4世紀末の建造ともされるようですが、一方で前後関係で最初期の大古墳でもあるようです。そう考えるとまず末は有り得ないような気もしますが、その被葬者は景行天皇妃の八坂入媛命としておきます。景行天皇の当初の皇后は播磨稲日大郎姫であり、その崩御後に皇后になったとされます。成務天皇・五百城入彦皇子(子に品陀真若王(応神天皇の皇后・仲姫命の父))の母で、成務天皇紀に皇太后になったとありますから、割合、後まで存命しています。成務天皇が佐紀盾列古墳群に陵を造ったと考えておきます。
佐紀石塚山古墳)佐紀陵山古墳や宝来山古墳の後の建造とされます。特徴としては佐紀陵山古墳の北西方向に密接して建造されていることです。神功皇后の治世に仲哀天皇の系譜に繫がる播磨稲日大郎姫墓を改装して建造したと見ます。更に北西に神功皇后陵五社神古墳がありますが、その並びに意味があるんでしょう。他に応神天皇の皇后の祖父として八坂入媛命の子の五百城入彦皇子も考えられるかもしれませんが、やや根拠に欠けるような気もします。
宝来山古墳)佐紀盾列古墳群古墳群に葬られたとされる成務天皇の真陵だと考えます。佐紀陵山古墳→佐紀石塚山古墳の間の4世紀後半の建造とされ、成務天皇の没年からやや時期が下りますが、佐紀盾列古墳群古墳群に含まれる範囲の古墳で時期と格を考えると、宝来山古墳しかないと考えられます。周濠が同一水面で墳丘を一周する古墳としては初期事例で、垂仁天皇陵に治定される立派な古墳のようです。土器編年等による年代の推定は絶対年代としては目安的なものです(同一古墳群内における)前後関係は尊重すべきですが)。奈良県奈良市尼ヶ辻町字西池。
神功皇后陵)宮内庁により奈良県奈良市山陵町にある狹城盾列池上陵に治定されており、遺跡名は4世紀末頃の築造と推定される五社神古墳で墳丘長275メートルの前方後円墳です。祭祀(主に中期古墳で見られる)の実施が初期事例で、その大きさは全国11位の巨大古墳です。神功皇后の皇居は磐余若桜宮ですが、大和の当時の古墳群が造営されていた地域に葬ったまでなんだろうと思います。女性皇族が多いと見られる佐紀盾列古墳群において盟主墳と言える存在だと思います。
東の三陵・西の市庭古墳)似通った大きさの三陵が年代順に並んでいます。別記事で検討しますが、倭の五王の時代の皇后陵だと考えます。西の市庭古墳も同様に応神天皇妃の高城入姫命を挙げておきます。大きさがやや大きいですが、応神天皇関連人物は大きい傾向にあります。
成務天皇の治世と国造制に関して言えば、またいずれ考察するかもしれません。
志賀高穴穂宮(近江))景行天皇は諸国を巡幸・戦争して回ったフシもあって、その一環で最後に志賀高穴穂宮に皇居を定めたようです。志賀高穴穂宮は琵琶湖南西岸の滋賀県大津市穴太(あのう)の地のようで、古代史でもほぼ注目されませんが、瀬田川の水運で瀬戸内海から九州~半島~大陸に通じ、北に向かえば北陸(越)、東に向かえば東海・東山・関東と交通の要衝とも言える地だと思います。成務天皇はここを根拠に「武内宿禰」の補佐を得て、国の境を定め、国を開いたそうです(古事記序文で称えられています)(国造制と関係あるかもしれません)。仲哀天皇即位時の皇居もここだったと考えられ、ゆえに神功皇后もこの辺りにいたとも考えられます。そう考えると(神功皇后の重要性を踏まえると)、この決定が後々大きな意味を持ったと考えられます。神功皇后の陵が結局佐紀盾列古墳群で成務天皇の陵と同じ場所にあるのもこれで理解出来ます。つまり佐紀盾列古墳群とは志賀高穴穂宮(近江)に関連して造営が始まった古墳群なのでしょう。仲哀天皇は直ぐに九州に移転しますが、神功皇后の九州における政府軍に対して忍熊軍は東国の兵を動員して対抗します。近江に皇居を置くことによって東国との連絡が高まった事情がありそうな気もします。
佐紀盾列古墳群古墳群の比定(東は年代的に倭の五王との関連で理解。別記事参照)
西(山陵町・佐紀町):佐紀陵山古墳(八坂入媛命墓;4世紀末?:墳丘長207m)→佐紀石塚山古墳(播磨稲日大郎姫墓:4世紀末頃?:墳丘長218m)→市庭古墳(高城入姫命墓・5世紀前半・墳丘長253m)
関連古墳:宝来山古墳(成務天皇陵:4世紀後半:墳丘長227m)
北西端(山陵町):五社神古墳(神功皇后陵:4世紀末:墳丘長275m)
東(佐紀町・法華寺町):コナベ古墳(仁徳天皇皇后磐之媛命陵・5世紀前半・墳丘長204m)→ウワナベ古墳(履中天皇妃葛城黒媛墓・5世紀中頃・墳丘長205.4m)→ヒシアゲ古墳(允恭天皇皇后忍坂大中姫陵・5世紀中葉-後半・墳丘長219m)
佐紀陵山古墳)4世紀末の建造ともされるようですが、一方で前後関係で最初期の大古墳でもあるようです。そう考えるとまず末は有り得ないような気もしますが、その被葬者は景行天皇妃の八坂入媛命としておきます。景行天皇の当初の皇后は播磨稲日大郎姫であり、その崩御後に皇后になったとされます。成務天皇・五百城入彦皇子(子に品陀真若王(応神天皇の皇后・仲姫命の父))の母で、成務天皇紀に皇太后になったとありますから、割合、後まで存命しています。成務天皇が佐紀盾列古墳群に陵を造ったと考えておきます。
佐紀石塚山古墳)佐紀陵山古墳や宝来山古墳の後の建造とされます。特徴としては佐紀陵山古墳の北西方向に密接して建造されていることです。神功皇后の治世に仲哀天皇の系譜に繫がる播磨稲日大郎姫墓を改装して建造したと見ます。更に北西に神功皇后陵五社神古墳がありますが、その並びに意味があるんでしょう。他に応神天皇の皇后の祖父として八坂入媛命の子の五百城入彦皇子も考えられるかもしれませんが、やや根拠に欠けるような気もします。
宝来山古墳)佐紀盾列古墳群古墳群に葬られたとされる成務天皇の真陵だと考えます。佐紀陵山古墳→佐紀石塚山古墳の間の4世紀後半の建造とされ、成務天皇の没年からやや時期が下りますが、佐紀盾列古墳群古墳群に含まれる範囲の古墳で時期と格を考えると、宝来山古墳しかないと考えられます。周濠が同一水面で墳丘を一周する古墳としては初期事例で、垂仁天皇陵に治定される立派な古墳のようです。土器編年等による年代の推定は絶対年代としては目安的なものです(同一古墳群内における)前後関係は尊重すべきですが)。奈良県奈良市尼ヶ辻町字西池。
神功皇后陵)宮内庁により奈良県奈良市山陵町にある狹城盾列池上陵に治定されており、遺跡名は4世紀末頃の築造と推定される五社神古墳で墳丘長275メートルの前方後円墳です。祭祀(主に中期古墳で見られる)の実施が初期事例で、その大きさは全国11位の巨大古墳です。神功皇后の皇居は磐余若桜宮ですが、大和の当時の古墳群が造営されていた地域に葬ったまでなんだろうと思います。女性皇族が多いと見られる佐紀盾列古墳群において盟主墳と言える存在だと思います。
東の三陵・西の市庭古墳)似通った大きさの三陵が年代順に並んでいます。別記事で検討しますが、倭の五王の時代の皇后陵だと考えます。西の市庭古墳も同様に応神天皇妃の高城入姫命を挙げておきます。大きさがやや大きいですが、応神天皇関連人物は大きい傾向にあります。
成務天皇の治世と国造制に関して言えば、またいずれ考察するかもしれません。