8歳の時からの探し物が見つかりそうな予感がする。
だけどあと数日ではまとまりそうもない。で、来年思い出せるようにメモを残す。
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いま、国をあげて「支援」が大流行だ。「支援対象者」は増大する一方。
特別支援教育の子どもは増える一方。不登校の子は増える一方。児童相談所の相談は増える一方。子ども食堂の数は増える一方。ヤングケアラーを支援する法律もできるという。
こんなに「支援」があふれているのに、私の息苦しさもまた増える一方だ。
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「支援」側の人は、どうやって支援したらいいのか」と困っている。
何かが、行き詰っている。
これって、「対象外」だった子の助け方は分からない、ってことなんじゃないのかな。
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「対象外」への支援。それは、今まで「支援する側がしたい支援をする」ということだった。
だから、「対象」を次々増やしても、「対象外」の存在と、ふつうにつきあう、ということがないから、「助け方」も分からない。
正しさに正しさを積み上げるという「支援」の行き詰まり、だと思う。
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むかし、障害者運動のなかで、「介助者手足論」?という言い方があった。「介助者」は、障害者の指示に従う、だけでいい。介助者の考えや思いはいらない。
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「介助する側がしたい介助」をするのでなく、介助される側が主導権を持つ。
それは、「主体を奪われた者」が、他者の主体を奪うやり方で、自分の主体を取り戻す、回復する、という形だった。
そこには、どんな「回復」があったのか、取り戻せなかったものは何か?
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「支援する側がしたい支援をする」ことと、「介助される側が求める介助をさせる」こと。
どちらも、力関係に無自覚なやり方。生物的非礼なやり方だった。
相手を「孤立」させる。
相手の声をなしにし、「無力化」する。
相手の存在を「透明」にする。
だから、凍りつく、迎合する。
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その「生物的非礼」のやり方に、無自覚である点は、どちらも同じではなかったか。
阪神大震災の後から、「災害救援」について、私たちは少しずつ学んできた。そして東北大震災、福島の原発事故があった。
そして、いま、支援に関わる人たちは、みんな困っている。
「助け方が分からない」のだ。
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今までは、「助け手」がなくて、困ってきた。孤立してきた。
今は、「助け手」が増える一方なのに、法律ができ、税金が投入され、制度が整う一方なのに、みんな、困っている。
「助けたい」のに、どうしたら「助ける」ことができるのか、「助ける」ことになるのか、が分からない時代。
さてと。