ワニなつノート

《自分の「呪い」を解くための100のメモ》①

8歳の時からの探し物が見つかりそうな予感がする。

だけどあと数日ではまとまりそうもない。で、来年思い出せるようにメモを残す。

            □

いま、国をあげて「支援」が大流行だ。「支援対象者」は増大する一方。

特別支援教育の子どもは増える一方。不登校の子は増える一方。児童相談所の相談は増える一方。子ども食堂の数は増える一方。ヤングケアラーを支援する法律もできるという。

こんなに「支援」があふれているのに、私の息苦しさもまた増える一方だ。

            □

「支援」側の人は、どうやって支援したらいいのか」と困っている。

何かが、行き詰っている。

これって、「対象外」だった子の助け方は分からない、ってことなんじゃないのかな。

            □

「対象外」への支援。それは、今まで「支援する側がしたい支援をする」ということだった。

だから、「対象」を次々増やしても、「対象外」の存在と、ふつうにつきあう、ということがないから、「助け方」も分からない。

正しさに正しさを積み上げるという「支援」の行き詰まり、だと思う。

     □

むかし、障害者運動のなかで、「介助者手足論」?という言い方があった。「介助者」は、障害者の指示に従う、だけでいい。介助者の考えや思いはいらない。

            □

「介助する側がしたい介助」をするのでなく、介助される側が主導権を持つ。

それは、「主体を奪われた者」が、他者の主体を奪うやり方で、自分の主体を取り戻す、回復する、という形だった。

そこには、どんな「回復」があったのか、取り戻せなかったものは何か?

            □

「支援する側がしたい支援をする」ことと、「介助される側が求める介助をさせる」こと。

どちらも、力関係に無自覚なやり方。生物的非礼なやり方だった。

相手を「孤立」させる。

相手の声をなしにし、「無力化」する。

相手の存在を「透明」にする。

だから、凍りつく、迎合する。

             □

その「生物的非礼」のやり方に、無自覚である点は、どちらも同じではなかったか。

阪神大震災の後から、「災害救援」について、私たちは少しずつ学んできた。そして東北大震災、福島の原発事故があった。

そして、いま、支援に関わる人たちは、みんな困っている。

「助け方が分からない」のだ。

             □

今までは、「助け手」がなくて、困ってきた。孤立してきた。

今は、「助け手」が増える一方なのに、法律ができ、税金が投入され、制度が整う一方なのに、みんな、困っている。

「助けたい」のに、どうしたら「助ける」ことができるのか、「助ける」ことになるのか、が分からない時代。

 

さてと。

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