ワニなつノート

「授業という生活」を暮らすということ(4)




≪生活の中心にいる自分≫


「授業という生活」という言葉が思い浮かんだのは、
前回の原稿を書いているときだった。
私自身が「授業」に囚われていたことに改めて気づいた。

「分からない授業はかわいそう」は、
「学校のコトバ」だと言っている自分が、
「授業」そのものから抜け出せないでいた。

それが一番の「学校のコトバ」だったのに‥。

だから、「かわいそう」は違うと思いながら、何をどう伝えればいいのか、
何のために伝えようとしているのか、うまく自覚できないでいた。

でも、「授業という生活」をどう暮らすかというふうに考えれば、
今まで、「できないことや困った行動へのアドバイス」のように
言われていたことも、
「授業という生活」のための基本であったのだと思えてくる。

私はそうしたことを出会った子どもたちから教えてもらってきたのだが、
他には教育関係のものから学ぶことはほとんどなく、
むしろ老人介護についての本や講演から多くのことを学んできた。

だから、今回もすぐに思い出した言葉は、
クリスティーンさんの連れ合いであるポールさんの言葉だった。
ポールさんは、クリスティーンさんが認知症になった後に出会い再婚したのだが、「介護は生活のほんの一部で、ごく普通に二人の生活を楽しんでいるのです」という。

そしてまた、
「彼女の負担をちょっとでも軽くしてやりたいのです。
でも、何をやりたいのかを決めるのは彼女です。
彼女に自分が生活の中心にいると感じてもらえることが大切なのです」
という。

 私はこの言葉を思い出して、すぐに書き換えてみた。

≪この子の負担をちょっとでも軽くしてやりたいのです。
でも、何をやりたいのかを決めるのはこの子です。
この子に、自分が生活の中心にいると感じてもらえることが大切なのです≫

大切なことは、ポールさんが「かわいそう」とは思っていないこと。
「分からない授業はかわいそう」という感情からスタートして、
「ではどうしたら」と考えると、「ガッコウの迷路」にはまる。

そうではなく、
「この子は私とは違う負担や重荷を抱えながら人生を生きている。
この子と一緒に楽しみ行くために、
自分ができること、したいことは何なのか」
という問いから私はスタートしようと思う。

それは、その先の結果はもちろんだが、
途中の風景がまったく違うものになるだろう。
なぜなら、手を貸そうとしている私たちは、
障害を持って生きる課題に取り組んだことがないのだから。
一緒に悩み迷うことにとどまること、
解決などない日々に踏みとどまるという過程そのものが、
この子たちが自分の生活の中心にいると感じてもらうために必要なことなのだ。

大人が勝手に解決しないこと、
手伝ってはいけない苦労があることを知らなければいけない。
だから、途中の風景こそがとても大事なことなのだと思う。

で、子どもが「授業という生活」の中心にいるためにはどうすればいいのか。

例えば、授業が始まって、その子の机の上に何も置かれていなかったら、
教科書くらいは出すように話しかけること。
本人がまたすぐにしまってしまったら、それはそれで本人の考え。
どこまで攻防するかは、関係と気分とその日の天気…、その他いろいろ。

例えば、授業中に教室を出て行ったら、
「どこ行くの?」くらいは聞いてほしい。
「いまは授業中だから、みんなはここにいるよ。
君も一緒にいようよ」と声をかける。
それでも、ピューッと行ってしまったら…、
いつどうやって連れ戻すかどうか、
行き先をどう確かめるか、
どれくらい「泳がせておくか」、
それもまた、関係と気分とその日の体調…その他いろいろ。

でも、休み時間が終わったら、
次の授業の前には一度教室に戻して、
そこからリスタートするのが基本だろう。

例えば、「特別扱いはできません。40分の1しか見れません」
とかいう先生がいる。
でも、それで十分。
40分の1でも、1時間に1回くらいは、
その子の目をみて声をかけることはできるだろう。

授業内容の質問でもいいけれど、
できれば子どもとふつうの世間話もしてほしい。
でも、「今日は何曜日か分かる?」というような
試すための質問ならしない方がいい。
それは、老人施設で、家族が面会にきたときに、
「この人は誰だかわかる?」という
最低の質問をする介護者のようなものだから。
分かりきったことであればバカにされたと感じるし、
本当に思い出せないときには恥をかかせるだけ。
そんなことを思い知らせるより、
さりげなくお孫さんがきてくれてよかったですねと、
うながしてあげればいいのだ。

こうしたことは、「授業」のためとか「教科に興味を持たせる」が
主な目的ではなく、「授業という生活」を一緒に暮らす者として、
ごくふつうの敬意をもって人に接するというに過ぎない。

例えば、「テストに名前も書けないのだから、評価もできません」と、
赤ペンで×もなにもつけずに返す先生もいる。
子どもに0点より寂しい思いをさせていることにも気づかない人がいる。

そもそもテストなら先生は時間がたっぷりあるのだから、
最初に鉛筆を持たせて、ここに名前を書こうねと、声をかけてほしい。
たとえ、そこに┻┳┫┯┿と書いてあろうが、жю(@_@)йбと書いてあろうが、
塗りつぶしてあろうが、「名前を書いて」と言われて本人が書いたのだから、
その子のサインだと思えばいい。

そんなふうにして、教室での「授業という生活」に慣れれば、
始めはクラス全員に対して話しかける先生の声を、
自分への声として聞きとれなかった子どもの耳にも、
「自分に話しかけている先生の声」が聞こえてきたりするのだろう。
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