≪「授業という生活」を暮らす≫
「障害があるのだから分からないままでいい」と言うのではない。
「分からない授業はかわいそう」という時の、
「分からない」とは、
≪教える側が理解させようとする「分かり方」をしない≫、
というにすぎない。
それを、「かわいそう」と言うことは、
「障害」のある姿がかわいそう、ということでしかない。
では、「授業に、その子が分かるような工夫はいらないのか」と聞かれれば、
「それはいるに決まっている」と答える。
一人の子どもを、「どうせ分からないのだから、そのまままでいい」と見放すとしたら、その人の授業が、他の子どもの心に届くとは思えないから。
一人の子どもをどうせ分からないからと、相手にもせず、
無視する先生の授業が、子どもの心に届くとは思えない。
そのことにうなずいてもらえるなら、
逆に、授業の中身がよく分からないとしても、バカにもされることもなく、
仲間外れにもされず、まぁ勉強は苦手なんだと包み込んで見逃してくれる
「ゆるみ・余地」のある授業なら、「分からない」子どもの心に、
何かが届いているものがあると分かってもらえるだろう。
「どうしたらこの子にも分かる授業ができるか」と
工夫する姿勢から生まれるもの…。
…この子は、私が「理解させようと思うやり方」では理解をしない。
…だとしたら、この子は、どういうやり方なら、理解してくれるのか?
…そもそもこの子は、私のしゃべっている中身を、
どんなふうに理解しているのか?
…この子は、私の授業をどんなふうに理解し、受けとめているのか?
こうした問いはさらに問いを生む。
…この子は、私を、どう理解しているのだろう?
…この子は、このクラスを、学校を、どう理解しているのだろう?
…この子は、この世界をどう理解しているのだろう?
そうしたことを考える姿勢と工夫の中から、
この子が受けとめてくれるものが生まれると、私は思う。
それは、他の子どもたちにも、
何か大切なことを伝えることになっているはずなのだ。
「分からない授業をただ受けさせているのは、
その子の発達の機会を奪うことになる」と言う人もいる。
「がんばれば、できるようになるのに」と。
だけど、障害児は、いつもがんばること、努力することを、
ギリギリまで求められ過ぎている。
「みんなと同じに」とか、
「これくらいはそんなに難しい要求ではない」と周りが考える事を、
「障害」を抱えて努力している本人が、
実際にどれくらいの労力とエネルギーをかけてがんばっているか、
その障害を生きたことのない者には分からないのに、
いつだってもっとがんばれ、もっとがんばれと言われる。
体操着に着替えるだけで、体育1時間以上のがんばりが必要な子もいる。
えんぴつ一本持つのに、100メートルダッシュと同じくらいの
エネルギーを使う人もいる。
暗いところが怖い子どもにとって、
体育館で電気を消すことは、真っ暗闇に感じるかもしれない。
運動会のピストルの音や笛の音が、
ダイナマイトの爆発音のように聞こえる子どももいるかもしれない。
みんなと一緒に並んでいなくても、グランドの隅にいるだけでも、
本人にとっては、心のエネルギーは誰よりもがんばっているかもしれない。
・・・そう考えると、子どもたちの世界はずいぶん違って見えてくる。
そして、そういうふうに、障害をもつ一人の子どもに配慮することは、
それを見ている他の子どもたちにも、確実に伝わる。
日々の先生の、対応を子どもたちはちゃんと見ている。
その子どもが、「ふつう」とは違う行動をするとき、
先生がどういう反応をするのかを、子どもたちは感じている。
その子の感情を汲み取ろうとして対応しているのかどうか・・・。
「なぜこんなことをするのか」と戸惑いながらも
理解しようとする気持ちがあるのかどうか・・・。
そうではなく、「なんでちゃんとできないんだ」と怒っているのかどうか・・・。
「どうせ言っても分からないんだから放っておこう」としているのか・・・。
そういうことを感じながら、先生の人間性を理解し、
学校の意味を理解していく。
そのとき、子どもに何が伝わっているのか。
子どもたちはそこで何を体験し、学んでいるのだろう。
それを表す言葉が、『学校のコトバ』にはあるだろうか?
そういえば、「学校生活」はみんなと一緒に過ごさせてあげたいという人も、
「分からない授業はかわいそう」だからと、
「生活」はみんなと一緒のクラスで過ごして、
授業は通級して「個別」で受けさせたいということがよくある。
『学校のコトバ』で考えれば不自然ではない理屈なのだろう。
先生や教育委員会の人が、そのことを疑問に思うことはないらしい。
そして、『学校のコトバ』と価値の中で育ってきた親にとっても、
そこがしっかりと「悩みの種」になっている。
でも、学校のコトバで考えるのではなく、
子どもの生活に沿って毎日の時間をたどってみれば、
子どもたちの学校生活の多くは「授業という生活」だということが視えてくる。
親や教師が考える「授業」という1時間と、
子どもの「授業という生活」の1時間は違う気がする。
狭い意味での「授業」に関しては「なるようにしかならない」と
開き直るしかない。
なぜなら、それが「難しい」ことを「障害」と呼んでいるのだから。
それでも、私たちが参加することを望んできたのは、
子どもがそこに向かうからだった。
それは「授業」に向かうというより、みんながそこで暮らしている
「授業という生活」を一緒に過ごすことに向うのだった。
そんなふうに考えることができれば、
「分からない授業はかわいそう」だとしても、
「授業という生活をいっしょに暮らすこと」はかわいそうではなく、
楽しむことも、感じることも可能だと分かるだろう。
そして、その子一人を抜き出すことは、
「授業という生活」まるごとを壊すことであり、
「みんなといっしょ」を壊すことになると分かるだろう。
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