たとえば、やっちゃんが、お菓子を作る会で、やりたい放題いたずらをする。
まずは、Nちゃんと妹にちょっかいを出して泣かせてしまう。
部屋の電気を消したり、妹のエプロンを自分で着てしまい、
妹が泣いても、もちろん返さない。
しばらくして、Nちゃんと妹が、二人でやっちゃんに抗議にいく。
「どうして押したの?」
「もうしないでね」「もうしないでね」「もうしないでね」
「もうしないでね」「もうしないでね」とNちゃんに迫られて、
ちょっと困ってはいるが嬉しそうに笑いながらごまかしている。
Nちゃんは、追及の手を緩めず、
「どうしてお返事しないの?」
「どうしてお返事しないの?」
「ちゃんとこっち向いて!」
「ちゃんと目をみてね」と迫る。
やっちゃんは困ってしまって、逃げ出してしまう。
一人ではお兄ちゃんにかなわない妹は、
そのバカ兄貴を撃退したNちゃんを尊敬のまなざしでみつめ、
ずっと後をついて遊んでいた。
Nちゃんも学校では「ショウガイジ」と呼ばれる子どもだが、
やっちゃんの妹には誰よりも頼りになるお姉ちゃんとして体験し、
そしてかっこいいヒーローとしてNちゃんに出会ったのだった。
こだわりの溶ける時間。
たとえば、「やっちゃんとNちゃん」が「障害児」と分類されることも、
妹の目を通すと、ただの「イジワル兄貴」と「助けてくれたお姉さん」
という物語が見える。
そのとき、私のなかでその「分類のこだわり」は溶けてなくなっている。
その後、やっちゃんは、枝豆を天井まで放り投げて遊び、
受け止めそこねて床にばらまいていた。
自分が「いけないこと」をしているのは、十分に分かっているが、
その「いけないこと」は、どんな具合に、いけないのか。
「いけないこと」を実際にしてしまうと、どういうことが起こるのか。
そうしたことは、実際に体験してみないと分からない。
同じ「いけないこと」をした場合でも、
相手によって、反応は様々なのだから。
怒られることが嬉しいときや相手もいる。
それが大好きな女の子ならなおさらのこと。
だから、そこでは「人間関係」を学んでいるとも言える。
「いけないこと」をした場合でも、人によって対応は違う。
それから2ヵ月後、やっちゃんが、
その時の枝豆を飛ばしている写真を見て、
嬉しそうに「いけないねー」と笑う。
「誰がやったの!?」と突っ込むと、
ちょっと真面目な口調になって、
「いけないことだねーー」と何度もうなずいていた。
ああ、そうか。あのときも、やっちゃんは、
本当は「いけないこと」だと思いつつ、
どうしても、やってみたい気持ちを抑えられなかったのかーと、
ふつうに思う。
わたしの中で、そういうふうに「考えるやっちゃん」ではなく、
「いつも、とにかく、余計なことをするのがやっちゃん」と、
思ってしまっている自分にきづく。
どうして、そうせざるを得ないのか。
なぜ、わかっていてもそうしてみたいのか、
そうしてしまうのか、せずにいられないのか。
ただ、何も考えずに悪さをしているのではないのだ。
大人の私が「やらない方がいいとわかっているのに、やってしまう」のと、
子どもが、「やってしまうこと」は、ちょっと違うのだ。
「イケナイコト」だとは分かるし、
「オコラレルコト」も「チュウイされる」ことも分かっている。
だけど、それは本当にそうなるのか、やってみなくてはわからない。
今回も、本当にやってしまったこの場の、この関係ではどうなるのか、
どういうことになるのか、
どういう事態が起こり、
どういう展開になり、
その先にどんな「運命」が待ち受けているのか。
それは、やはり「やってみないと」分からないのだ。
そういう、子どもが何かを確かめようとして、
また試そうとして、また不思議に思って、
「よけないこと」をしてしまうのかもしれない、
という「子ども」へのまなざしがないままに、
怒ったり、注意したり、教えよう、分からせようとしても、
「こちらのやり方」は、どこか子どもとすれ違うことになる。
いつだって、本人の課題と、こちらが解決してあげようと思うこととは、
どこかすれ違うのだ。
だから、子どもの後からついていくしかないところがあるのだと思う。
「やってはいけないことなんだろうな…」と思うことを、
自分の理性をふりきってやってしまう自分がいて、
そうしてはじめて、
「ちょっと怒られたけど……でも楽しかった。
でも、ホントはいけないこと」とか、
「イケナイことはやっぱりしちゃいけない。
もうやめよう。…と思うけど、またちょっとやりたくなっちゃうかも」
そんなふうに思っているのかもしれない。
そう、相手はまだこの世の新入りなのだ。
「もう小学生なんだから」と思うか、
「何千年の歴史の人間社会に、たった数年前にやってきた新入り」だと思うか、
そんな目線の違いを、子どもは感じるのだろう。
「障害」とか、「自閉症」とかじゃなくって、
ただの新入りの子ども。
ただのクソガキ、だもんね。やっちゃん。
最新の画像もっと見る
最近の「やっちゃんがいく&Naoちゃん+なっち」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
- ようこそ就園・就学相談会へ(468)
- 就学相談・いろはカルタ(60)
- 手をかすように知恵をかすこと(28)
- 0点でも高校へ(395)
- 手をかりるように知恵をかりること(60)
- 8才の子ども(161)
- 普通学級の介助の専門性(54)
- 医療的ケアと普通学級(90)
- ホームN通信(103)
- 石川憲彦(36)
- 特別支援教育からの転校・転籍(48)
- 分けられること(67)
- ふつう学級の良さは学校を終えてからの方がよくわかる(14)
- 膨大な量の観察学習(32)
- ≪通級≫を考えるために(15)
- 誰かのまなざしを通して人をみること(133)
- この子がさびしくないように(86)
- こだわりの溶ける時間(58)
- 『みつこさんの右手』と三つの守り(21)
- やっちゃんがいく&Naoちゃん+なっち(50)
- 感情の流れをともに生きる(15)
- 自分を支える自分(15)
- こどものことば・こどものこえ・こどものうちゅう(19)
- 受けとめられ体験について(29)
- 関係の自立(28)
- 星になったhide(25)
- トム・キッドウッド(8)
- Halの冒険(56)
- 金曜日は「ものがたり」♪(15)
- 定員内入学拒否という差別(88)
- Niiといっしょ(23)
- フルインクル(45)
- 無条件の肯定的態度と相互性・応答性のある暮らし(26)
- ワニペディア(14)
- 新しい能力(28)
- みっけ(6)
- ワニなつ(351)
- 本のノート(59)
バックナンバー
人気記事