ワニなつノート

《なっちの研究・最終章のイメージ》



《なっちの研究・最終章のイメージ》



なっちは一度きりの子ども時代に、あらん限りの知恵と創造力を働かせて、「まるごとの自分」を生き延びてきた。

「障害」があるままで。

「ふつう学級は無理」と言われるままで。

「ついていけない」ままで。
――というよりは、古い教育に「ついていかない」ままで。


子どもは「正しさ」しか教えられなければ、「正しさ」を頼りにするしかない。
でもそれは、正しくいられない場面では、自分を助けてくれない。

「言葉」しか教えられなければ、「言葉」にしか頼れない。
でも、一番苦しいときに、言葉はそれほど頼りにはならない。

言葉がなくても、伝わる思いと喜びがあることを、私たちは知っている。

子どもに伝えたいのは、「正しさ」と「言葉」だけじゃない。

たとえ間違った時、失敗した時でも、言葉以上にあなたを大切に思っているということ。

なっちはそのことを地で行っている。


          ■


なっちとつきあうことで、確かめられたことがたくさんある。

言葉は話せても、こちらの言葉通りにはしてくれなかった。

一番の危機は車にひかれた時。その瞬間、母は「死んだ!」と思った。
退院後、一緒に実地検証と実地反省会をした。


大きな事故はそれだけだったが、高校生にもなって、駅のエスカレーター前の「赤いロープ」を勝手に張ってしまう。

あるいは閉まる間際の電車のドアに足を出す。他の男子のように引っ込めればいい。本人もその予定なのだろう。問題は、ドアの方が早いということ。そして挟まる。カメラに映る。制服から高校に通報される。怒られる。その他いろいろ。


やらかしてくれることはいちいち面倒だったが、どれも「やってみたい」という思いは分かる。

そんなしょうもないことを山のようにくり返して、でも二十歳になったなっちは、ちゃんと大人になった。小学生のころのようなしょうもないことはしない。中高校生のころのようなしょうもないこともしない。わたしと同じ。

なっちの「主体」はいつも揺るがず堂々としていた。

結局、長い年月の中で確かに届いたのは、言葉ではなく、一緒に生きる安心と信頼だった。


          ■


過去の時点から、未来を見ていたときには、不安しか見えなかった。

でも今の時点から、過去を振り返れば、すべての失敗やハラハラドキドキは、希望の在りかにしか見えない。


12年間、「問題行動」をくり返し続けてきたのではない。大人になっても「この自分」のままで生きる人生のための「成功体験」をくり返していたのだ。

今ここから見れば、なっちはいつも、希望への選択をしてきた。

それは、大人の正しさに従うことによってではなく、なっち自身の安心と信頼の経験から頼りにできる基準、をもとにしてなされてきた。


子どものままで、あらんかぎりの知恵を働かせて、一番安心できる自分の生き方を選び取ってきた。

今ここから見れば、それを否定できる材料は、ない。

わたしが、今も8歳のわたしのままで、悪い子のままで、ここにいられるように、なっちは、なっちのままで、ここにる。

なっちは自分の人生における経験と知、納得と安心の記憶のすべてを使って人生を生きている。

そう思うとき、他の子どもたちの顔が、雪崩のように浮かんでくる。みんなそうだった。

わたしたちは、なっちの最強の頑固さによって鍛えられ、教えられてきた。

注意や説教は伝わらなかったけれど、わたしたちの敬意と信頼は、いつのときも、確かに伝わっていた。



          ■


※(中邨さんが、「なっちの研究」のつづきを楽しみにして
くれるけど、たぶん書けない。

だから結論を先に書いてみた(^。^)y-.。o○
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