11月7日に、山田泉さんのお父さんのことを、少しだけ紹介しました。
4日間のブログの一部でした。
お父さんのこと、全文を紹介します。
父の「思い出話」あれこれ 第1話
2008年07月08日
とうとうがん患者の横綱級になったので、
早く書きたいことをかいておこうとおもったのですが、
ふっと書きたいことは何かというと父の話でした。
私って“普通”じゃないの?
昨日のライターさんもそうだったが、「どうしてそんなふうに感じ、
すぐに行動するのですか?」とか 、
「なぜ、そういうことに興味を持つのですか?」と取材でよく聞かれる。
どうも、私ってどこか普通じゃないらしい。
でも、どこがどうズレているのか自分ではわからず、
あたりまえのことをしてきたつもりなので、
なんと答えたらいいのかわからなくなることがある。
でも、私の中の「あたりまえ」は、
父の影響をずいぶん受けているような気がするので、
今日は父の思い出話を書くことにしよう。
☆
倒れるその日まで父は菓子職人
父は近所の人たちから「大将」と呼ばれていた。
小さなお菓子屋「つちや甘楽堂」の大将。
大将は、いつも白衣を着て、帽子をななめにかぶり、
ニコニコしながら鼻歌を歌い、毎日お菓子を作っていた。
一昨年の夏、72歳でクモ膜下出血で倒れるその日まで、
ひたすら働き続けた菓子職人だった。
子どもの頃、私が小学校から「ただいま~」と帰ると、
「はい、おかえり~」と父は仕事場で、母は店で迎えてくれた。
『男はつらいよ』の柴又の団子屋みたいな雰囲気だ。
大きな鍋で、ドーナツをあげている父の後ろ姿が目に浮かぶ。
あつあつのドーナツを一つお箸でつまんで「ほら、たべてみらんかえ」と
紙に包んで、手のひらにのせてくれた。
歌が好きで、お菓子を作りながら、三波春夫の『大利根無情』や
『チャンチキおけさ』などを、毎日毎日歌っていた。
ダジャレと鼻歌が趣味の父は、一日中冗談を言っては、
お客さんを笑わせるのが好きだった。
先日、近所の文房具屋さんへ買い物に行ったら、
店のご主人がこんなことを言っていた。
「あんたのお父さんがおらんごとなったもんで、
今年の商工会の旅行は寂しかったで。
お父さんは、場を盛り上げる千両役者じゃったきなあ。」
千両役者か…父にピッタリの言葉で、うれしかった。
☆
父の「思い出話」あれこれ 第2話
2008年07月09日
「あんまり勉強せんごとなあ」
大人になってから気づいたのだが、私は父から叱られたことがない。
「父親」というのは、明るくてよく働き、家でも家の外でも、
おもしろいことを言って人を笑わせる楽しい人のことなんだと、
ずっと思っていた。
そんな父が、時々マジメな話をしてくれた。
どら焼きを焼きながら、同じ話を何回もしていたっけ。
「商店は商店同士、助け合って生きていかなのう。
1円2円安いからち言うて、商店のもんが、
スーパーに買い物に行くもんじゃねえ。
人は、安い物を買ったら得した気持ちになって、
余分なものも買ってしまうもんじゃ。
結局無駄遣いをするんじゃ。
『安物買いの銭失い』ちゅうことじゃ。
あんたはな、商売人の子じゃきな、
できるだけ商店街で買い物をしちょくれよ」
「いいか、みんながみんな勉強して大学へ行ったら、
町に菓子屋になる子がおらんごとなるき、そりゃ困る。
世の中には、政治家も学校の先生も弁護士さんも必要じゃが、
おんなじように、菓子屋も魚屋も文房具屋も必要なんじゃ。
勉強ができる子がいてもいいけれど、
勉強ができん子もおってくれんと困るんじゃ。
じゃあき、あんたは、あんまり勉強せんごとなあ。
菓子屋になるんじゃったら、お金出しちゃるで。
フランスにケーキの勉強に行かんかえ?
ハハハッ」
☆
父の「思い出話」あれこれ 第3話
2008年07月09日
修学旅行に行けなかった父の願い
父親の希望通り勉強はせず、頭スッカラカンのまま高校生になった私が、
卒業直前に、ひょんなことから「保健室の先生になる!」と言い出したとき、
父は「あんた、赤チン先生の何がおもしろいんかえ?」と、
びっくりしていた。
でも、両親から特に期待されることなく育ち、
進路も含めてほったらかしだった私は、自分でサッサと短大を受験し、
運良く採用試験にも合格し、へき地の小学校に採用が決まった。
その頃から父は、こんな話を繰り返して話していた。
「学校の先生になるなら、一つだけ頼みがある。
家が貧乏で修学旅行に行けん子どもがおったら、
ワシが費用を全部出すき、どうか連れて行ってやっちょくれ。
ワシは母親を生まれた時に亡くし、父親は貧しい大工じゃったき、
貧乏のどん底の暮らしでなあ、食べるものもねえもんで、
子どもの頃から、海にエビや魚を捕りに行って売って、
少しのお米を買って生きてきた。
お弁当の時間になっても、お弁当がないもんで、
おなか空かしたまま運動場に行って、時間が経つのをじっと待っちょった。
修学旅行は、クラスで一人だけ行けんかった。
あの時、誰か先生が費用を出してくれちょったら、
大人になったらワシは何倍にもして返すのに…ち思いよった。
あんたの勤める学校に、
みんなが行く旅行に行けん子がもしおったら、教えちょくれ。
ワシが金を出しちゃりてえんじゃ。」
父の言葉を思い出して 今は、修学旅行の費用は、
生活保護のお金から支給されるので
生活が大変な家庭も、参加できるようになっている。
でも、父の言葉が耳に残っていたので、
あきら君の時も、ひとみちゃんのときも気になって、ちょっとだけ動いたな。
数年前のことだった。
中学2年のあきら君は、生活保護費から出た修学旅行費を親が使ってしまって、
どうなることやら?…と思っていたけれど、なんとか参加できることになった。
フラリと保健室に来たあきら君に、
「かばんある? あたし毎年修学旅行について行くもんで、
荷物入れるかばんがいくつかあるんじゃけど、よかったら使ってん」
と言ったら、「あ、はい。かばんないです」と言ったので、
その日の夜、家に持っていった。
旅行中、みんなは家族におみやげを買っていたけれど、
あきら君はおこづかいゼロだった。
八つ橋と奈良漬けを買って、「これ、おみやげ」と小さな声で言ったら、
あきら君は、ニッコリ頷いてかばんに入れた。
担任のA先生も、あきら君におみやげを買って渡していた。
ひとみちゃんの時も、同じようなことがあったな。
ささやかなことだけれど、修学旅行のたびに父の言葉を思い出して、
気になる子どもはいないかな…とキョロキョロしていたあたし。
父は、よほどのことがない限り、私に助言も注意もしない人だったので、
こうして教えてもらった言葉は、今でもはっきり覚えている。
☆
父の「思い出話」あれこれ 第4話
2008年07月09日
46年間、父のいるこの町で
クモ膜下出血で倒れた日から、2年間寝たきりになり、
話すことも食べることもほとんどできずに管につながれたまま
旅立っていった父。
あの日、いつものようにどら焼きを入れた袋をぶら下げて
わが家にやってきて、
「はい、おやつ持ってきたで~!」と言って、
どら焼きを玄関に置き、家のドアをバタンと閉めた瞬間、
ちらっと見た後ろ姿が元気な父の最後の姿だった。
もっと話をしておけば良かった。
たまには一緒に旅行でも行けば良かった。
親孝行はろくにできなかったけれど、
46年間ずっと、父のいるこの町で顔を会わせながら
私も生きてきたってことが唯一の親孝行かな。
初盆が近づいた。
「泉ちゃんは顔も性格も、お父さんによう似ちょる」と
親戚から言われるたびに、うれし涙がこぼれる山ちゃんです。
2008年7月7日 七夕の日に
最新の画像もっと見る
最近の「ワニなつ」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
- ようこそ就園・就学相談会へ(499)
- 就学相談・いろはカルタ(60)
- 手をかすように知恵をかすこと(29)
- 0点でも高校へ(393)
- 手をかりるように知恵をかりること(60)
- 8才の子ども(161)
- 普通学級の介助の専門性(54)
- 医療的ケアと普通学級(90)
- ホームN通信(103)
- 石川憲彦(36)
- 特別支援教育からの転校・転籍(48)
- 分けられること(67)
- ふつう学級の良さは学校を終えてからの方がよくわかる(14)
- 膨大な量の観察学習(32)
- ≪通級≫を考えるために(15)
- 誰かのまなざしを通して人をみること(134)
- この子がさびしくないように(86)
- こだわりの溶ける時間(58)
- 『みつこさんの右手』と三つの守り(21)
- やっちゃんがいく&Naoちゃん+なっち(50)
- 感情の流れをともに生きる(15)
- 自分を支える自分(15)
- こどものことば・こどものこえ・こどものうちゅう(19)
- 受けとめられ体験について(29)
- 関係の自立(28)
- 星になったhide(25)
- トム・キッドウッド(8)
- Halの冒険(56)
- 金曜日は「ものがたり」♪(15)
- 定員内入学拒否という差別(97)
- Niiといっしょ(23)
- フルインクル(45)
- 無条件の肯定的態度と相互性・応答性のある暮らし(26)
- ワニペディア(14)
- 新しい能力(28)
- みっけ(6)
- ワニなつ(351)
- 本のノート(59)
バックナンバー
人気記事