ワニなつノート

テーマⅢのメモ(その4)


テーマⅢ《普通学級にいるとどうして『本当の自信』が育つのか》

《本当の自信! 本当の自信?》



自分が自分の主人公である、という実感は、「本当の自信」に欠かせない要素だ。また自尊感情にも欠かせない要素だ。

自分が自分の主人公である、ということは、いろんな言葉で表される。
「自立」
「主体的活動」
「自己決定」
「自己肯定感」
「たずさわること」※(トムキッドウッド)


正しい大人に守られ、生かされるだけでなく、自分で自分の大好きな人と生きたい。
いつも「正しい」自己決定だけでなく、間違ってもいいから、自分で決める人生。

望まれている「正解」の自己決定をするのではなく、自分で間違って、自分で間違ったとわかりたい。

そうして、自分がうれしいこと、たのしいこと、何が安心で、誰と一緒にいたいかを、自分で探したい。

それが、本当の自信だと、私は感じている。

だから、私の感じる「本当の自信」は、「分けられた場」「個別の場」「特別支援の場」で得ることは難しい。


「たずさわること」とは、いまある自分の「能力」で、自分の生活に関わること。誰かと比べての能力ではない。

いまある自分の「能力」で、自分の生活に関わるとは、赤ちゃんなら、泣いて、呼ぶこと。表現すること。誰かと関わること。

「たずさわる」ことは、「次の段階の能力」に到達することが目的ではない。

「たずさわる」ことは、「他人から反応を引き出し、自分が世の中を動かすことが可能であるという実感である。」※

学校の先生が、「問題行動」とよぶ行動の中には、子ども自身の側から見れば、せいいっぱいの「適応」のための行動であり、「他人から反応を引き出し、自分が世の中を動かすことが可能であるという実感」のために行う「必死」な思いの表現であることが多い。

学校では、赤ちゃんがお腹がすいて必死で泣くことで訴えることを、「問題行動」と呼ぶような場合がある、ということ。


「たずさわることを奪われたとき、その人の能力は衰え始め、自信は奪われる。」※


だから、問題行動の、目に見える形の未熟さだけを問題にし、力づくで、また薬づけで、抑えることは、「自信」を奪うことにしかならない。

(※=「認知症のパーソンセンタードケア」トム・キッドウッド )


       ◇


ふつう学級という子どもたちの生活空間では、複数の「主体」がにぎわっている。

子どものにぎわいは、複数の主体の、生き生きとした「たずさわる」ことのぶつかりあいから生まれている。

分けられた場所、個別や少人数の「障害児」だけを集めた場所では、どうしても「足りない」ものがこれだ。

「複数の主体」のにぎわい、「複数の声」の雑然なエネルギー。
それは、子どもにとって、水と空気と守ってくれる親のぬくもりと安心と同じくらい、大切なもの。

この「複数の主体」のにぎわいがあり、
「複数の声」の雑然なエネルギーのあふれる場所。

その空間、環境そのものが、障害に関わらず、すべての子どものために、
自分がその一員である仲間社会への適応(=お互いに)のために欠かせないものだ。

その適応は、「障害」を認めない「社会への適応」ではない。
治すべき障害を克服して後に手の届く適応ではない。

いま、ある、自分の姿のまま、で、仲間の一員である、自分自身への適応であり、だからこそ、たとえ大人になっても「できないことのある姿」のままでも、「堂々」と生きられる「本当の自信」をつかむことができる。
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