ワニなつノート

「ここにいる私」と「…できる私」 (その8)

「ここにいる私」と「…できる私」 (その8)

◇[まるごと]の私


先日、「こどものことば」募集をしたのですが、一通しか届かないので、勝手に拾いにいってきました。
ありんこさんのブログから。

     ◇    yellow19

《あーちゃんに聞くからおもしろいんぢゃん!!》


就学時、いつも末娘のことを聞かれるのは母親の私でした。
そして私も、末娘だったら こう だろうなぁ。
と末娘の気持ちを考えては答えていました。

そんな生活があまりにも当たり前になっていて、
担任が「あーさん これは何?(ノートに書いたものをさして)」と尋ねるのに対して、
無言の末娘の横で先回りして『これは うさぎです。」等々答えてしまうのでした。

そんな私に苦笑しながら担任が「お母さんと勉強しているわけではないんです。
私はあーさんに聞きたいんです。」と注意を受けてハッとする。

……理解してもらおうとするあまり口がつるりと滑る、見守るってなんて難しいんだろう。
よくそう思ったものです。

現在は私と末娘が一緒にいても子供たちは末娘に向かって声をかけていきます。
そして私にも改めて「さようなら」など挨拶していきます。

今日は下校班で帰っていくと同じ方向へ帰る下校班の子供たちと合流して、どういう流れか末娘への質問が始まりました。

質問に沿って答えが出ると「おおーー!」と歓声が上がり、とんでもない答えが出ると笑いが起こります。

そんな中質問しても要領を得ないことにイラついて私に答えを求めてきたYちゃん。

そんな様子を見ていて数人の子供たちが、「あーちゃんに聞くからおもしろいんぢゃん!!」と言い出し、周りの子供たちも「そうだよ。」といいながら、レポーターの集団のように私から末娘のほうへどどどーっと移動していきます。

この子供たちはけっして正解を求めているわけじゃないんだなと思いました。

末娘とのやり取りを愉しんでいる、おもしろいと感じるからわいわいがやがやと末娘の周りに集まって互いのキャッチボールを続けているんだなと感じられました。……


つづきはこちらrighthttp://blogs.yahoo.co.jp/arinnko140129/63771412.html


        ◇      ◇      ◇      ◇


これを読みながら、「あ、これって、《ここにいる私》《まるごとの私》が行き交う風景のなかのことばなんだ」と気づきました。


☆「その方が良いと思うよ。だってお母さんいない方が、航くんみんなとたくさん話せるし、もう慣れてるし、いなくても大丈夫だよ」(小2)

☆「痛かったでしょー……、お母さん、びっくりしたんじゃない?」
「だって、言ってないもん」(小3)

☆「どうしてお母さんがいるの?」
「慣れるまで…」
「おとなになると一人だから、いまから一人の方がいいよ」(小1)

「あのさぁ、おとなたちが心配するほどじゃぁないよ。べつに…」(小2)

☆「ひまわり学級の子が困っていたら(助けにくい)けど、ちーちゃんだったらすぐ助けに行く!」(小3)


☆そっと後ろからさくらを抱きしめて、 
「オレ…無口なおんなが好きなんだ…」(小1)



☆「あーちゃんに聞くからおもしろいんぢゃん」(小5)

☆「赤ちゃんじゃないよ」(小1)

…幼稚園が一緒だった男の子が「しょうがないよ、ちーちゃんは赤ちゃんなんだから」。
すると隣にいた女の子が、男の子の方にクルッと顔を向けて一瞬黙ったあと
「え!?赤ちゃんじゃないよ」。


☆「はなれて、みてる」(小1)

同じ幼稚園出身で同級生のお母さん…。
「私もちーちゃんどうしてる? Bはどうしてるの?」って聞いた。
Bは『みてる』って。
『はなれてみてる』って。
ちーちゃんができることはわかってるから、それでだめな時は、行くみたい。


☆「…お母さんはYがいると大変なの?」(小6)

「お友達と話もなかなか出来ないし、毎朝、Yを通学団から遅れないようにするのは、大変?」
長男は、「別に。友達とは、学校で話すし。お母さんはYがいると大変なの?」(小6)


     ◇      ◇      ◇      ◇



………このブログをちょっと思い出しただけで、こうした「子どものことば」がいくつもみつかります。

本当に、これらのことばは、「その子が、まるごと、ここにいる・いっしょにいる」ってことが、本当にあたりまえのことを伝えているんですよね。

そのことばたちのなかにいる、子どもが、「ここにいる私」を感じていないわけがありません。

子どものことばのなかに暮らすこと。
それは、言葉の発達や社会性の発達、などということとは、まったく違うものを育てているのでしょう。

おたがい、まるごとのわたし。
おたがい、ここにいるわたし。
そこには、障害があるとかないとか、しゃべれるとか数えられるとかとは違う世界があるように思います。

「あなたはひとりじゃない。たくさんの『子どものあなた』が、いつもそばについているから大丈夫」

「それに、たくさんの『子どものあなた』とおなじ子どもだった仲間が、いつもそばについているから大丈夫」

そんな声が、大きくなった子どもたちの姿から、確かに聞こえることがあります。
もちろん、わたしのなかにも。

コメント一覧

ono
ご無沙汰しています。

愛知のOです。去年夏、講演に来ていただいてからkちゃんの勉強会などでお会いしてもご挨拶程度しかできず、大変失礼しています。

お身体のこと、またお会いできる日やブログが更新されることを待ちながら、こちらから応援しています。

以前、『就学相談 いろはかるた』を購入した方と最近話す機会がありました。
その方は当時、「普通学級には関心があるけどそんな勇気はないし…」といった感じでしたが、現在はお子さんは本当に楽しく普通学級に通っているそうです。

そんな中で、何かあって心が揺らぎそうになるときは、いつも『就学相談 いろはかるた』を読んで「大丈夫!」と思うそうです。

ああ、私と一緒だなと嬉しくなりました。

もうすぐYの懇談会です。担任にも読んでくださいと渡します。(校長にも渡しました。勝手に使わせてもらっています。すみません。)

「こどものことば」の最後の(小6)はうちの長男の言葉だと思います(ちがうかな…)懐かしく読ませていただきました。



森 晴子
yoさん*   お返事嬉しく読みました。皆様もおはようござい
ます。穏やかな良いお天気の札幌です。


 遠足、、そうなんです。本当に毎日派手に遅刻して行きますが、
温かく当たり前に歓迎までして受け入れてくれます。受け入れると
言うか、もうとっくに入ってしまっているので当たり前になりまし
た。

 例えて言うなら、私のクラスは、サクマドロップ缶のドロップ達
のような感じです。いろんな色、いろんな味、、、でも、みんな甘
くて笑顔になる、、という感じです。

 あのおばあちゃん(若い、元気!)の出会い、大きかったです。
あの言葉、視線に勇気100倍得ました!人生は出会い、出会いの
連続ですね。
yo
森さんへ

さくらさんの遠足、楽しそうでしたね。
お昼にたどりついたさくらさんを迎えるみんなの空気が伝わってくる気がしました。
途中?で出会ったおばあちゃんも、本当にすてきでした。
そんなふうに、知らないあいだに、見守られているまなざしの数が、子どもをさびしくさせない力になるような気がします。
本当に大切なことは、目には見えないってやつですよね(>_<)


yo
aiさんへ

素朴ないい子たちですね~。

でも、その子どもたちが、その素直な気持ちを言葉にできるのは、○くんの隣にいるお母さんが、○くんを大事に思っている、心配しているってことが、まっすぐに見えるからなんでしょうね。
そんな気がします。


yo
pinaさん。はじめまして、ですね。

鉛筆をおいて待っていてくれる、ここなちゃんも、
「多動」の子と「だるまさんが転んだ」で遊んでくれる先生も、すてきですねえ。
こんなにいっぱい「大好き」に出会える環境は、子どもの宝物ですよね(^^)v


森 晴子
(*つづき*)



 とにかく、「多様性を認める」とうのは、社会であれ、企業内で
あれ、とても覚悟の必要なことだと思う。

 

 他人の予期せぬ言動は、意外にストレスになることが多い。

 人はそれぞれにお互いのテリトリーやジャンルを意識して社会を
形成するだろうし、逆に家族や組織で一緒になった場合には考え方
が次第に同質化してくる。これは、言い換えれば多様化によるスト
レスを回避しているともいえるし、ストレスの回避行動自体は健康
な人間の正常な状態といえる。

 つまり、多様性を進んで受け入れる行為は本来ストレスであり、
当事者であればあるほどできれば回避したいものであるというのが
本質だからなのかもしれない。

 クリス・アージリス教授の「ダブルループ学習」が難しい原因の
ひとつとして「組織慣性」があげられるが、「組織慣性」は多様性
を受け入れることによるストレスの強さに関係しているのではない
かと考える。多様性を受け入れるストレス(多様な意見や人を“バ
イアス”とみなしてしまうこと)がより強い組織ほど、「組織慣性
」はよく働くのかもしれない。

 簡単に言えば、「A君はいつも“そもそも論”ばかり言う、ちょっ
とメンドクサイやつなんで、もう、この会合に呼ぶのはやめようぜ
!」として、同調できるメンバーのみで組織の運営を図ろうとする
ことに近い。

 こうして事例を挙げると、「そんなぁ、心が狭い...」と思うかも
しれないが、実はこうした事は自分自身も日常茶飯事的にやってい
ることに気づいてしまう(苦笑)。

 最近は、ポジティブ・アプローチとして、ワールドカフェやオー
プンスペース等の対話技法が盛んになりつつあるが、そのファシリ
テーションでは、「多様性を認める覚悟」が必要であろう。企業内
のイノベーション担当もまた同様である。

 「多様性を大事にしよう!」「多様性こそイノベーションや改革
の源泉」...

 言うはやすし、実行には多くの苦労や苦痛が伴う。


*****************


以前、ある先生にこう言われた事を思い出した。

『個人的には賛同しているのですが、組織的には、、、、』組織。

組織となると『バイアス』が強くなり邪魔をしている。バイアス、
検索してみた。偏り、偏見だそうだ。


森 晴子
おはようございます。今朝も朝からさくらが起きるまでの時間、い
ろいろ考えて感じて検索して読んでいます。


ショウガイのある事、そうでない子がともに学ぶ事は、たいていの
人は『イイね!』と言うのに現実はなかなか進まないのは、こうい
う事なんだな、と思う。



検索してみた。出た。多様性を認める覚悟・組織論

 


 生物多様性に関する世界的な会議が11日から本格的に始まった
こともあり、『多様性』というキーワードが今後もさらに注目され
ると思われる。

 以前より、イノベーションや知識創造等の理論においては『多様
性』による“ゆらぎ”や“カオス”等が注目されていたこともあり、『
多様性』のキーワードは社会学や生物学のみならず経済界にももっ
と浸透していくのだろうと思っている。(「多様性」元年、かな:
笑)

 『多様性を認める』というキーワードが時には「弱者救済」や「
マイノリティへの配慮」と安易に理解されるリスクもある。個人的
には「弱者救済」「マイノリティへの配慮」ともに大いに結構でど
ちらかというとそちらに加担したいのだが、『負け犬の遠吠え』と
理解されて、今の権益を握っている人たちやメジャリティの人たち
に議論に参加してもらえない、正しい認識がされない、というリス
クもあると思っている。

 また、企業の中では、「『多様性を認める』ことが具体的な成果
として目に見えるのか?」「ROIは?」(笑)等の話になりやすい
ため、結局は「成果を出している今の層や考え方が主流」となり、
「多様性」や「異なる認識」というのは、なかなか日の目を見るこ
とは難しいと考えられる。(*つづく*)

 
ai
道路を歩いている時、
○を突然、パニックが襲いました。
それは、激しいもので、
おさまるまで、かなりの時間がかかるだろうな。
と覚悟しました。
大きな声は、切なく哀しげに響きます。
近くにいる大人は、不安そうに見つめるだけでした。
「どこか具合が悪いのですか。」
「いえ、大丈夫です。しばらくすると落ち着きますから。」

ほどなくして、
小学校低学年の子供たち三人が、やってきました。
そのうちの一人、自転車に乗った女の子が訪ねました。
「どうしたの?」
私「うん、泣きたい気持ちが抑えられないの。」
女の子「どっからきたの。」
私「中体連の開会式から帰ってきたんだよ。」
女の子「そうなんだ。試合負けちゃった?」
私「まだ試合は始ってないよ。」
女の子「泣きたいんのか」
男の子「声聞いて駆けつけてきた。びっくりした。」
女の子「お兄ちゃんだから、声も大きかったんだね。」
○、泣きやみ、笑顔に変わりました。
女の子「あ、笑った。」
私「みんなの優しい気持ちが伝わったかな。」
女の子「お兄ちゃん。泣いててもいいのに。」
男の子「うん。いいのに。」
○、立ち上がり、満面の笑顔。
私「ありがとう。みんなのおかげで気持ちが切り替わったみたいよ。優しいのね。」
女の子は、小さな自転車をこぎながら、
「また、会いたいな。きっと会えるね。バイバイ。」


まぁ、その後も二度ほど、パニックしましたが、
その都度、見事に立ち直りました。

教えられました。
泣きたい○、
泣いている○を丸ごと受け止め、
気持ちに寄り添う姿に心打たれました。


パニックの理由は?
学校はどこだ?
障害名はなんだ?
どんな教育を受けているのだ?

大人たちのする犯人探しは一切しない。
無理にパニックを辞めさせようともしない。
ただ、気持ちに寄り添い。
受け入れるだけ。

見事なのは、
「また会いたいな。」と言ったこと。
願い通じたのか、翌日も会えたんですね。
○の出会いは、言葉では言い表せないほどの
言葉を超えた出会いです。
pina
★こどものことば(つづきです)★

お隣に座っている ここなちゃん、悪戦苦闘の息子に
「こうちゃん、がんばって♪」のんびりとおだやかな声で言ってくれる。
息子のノートを覗きながら、自分が先にノートを書き終えないよう鉛筆をおいて、「大丈夫だよ。まっててあげるよ」息子を安心させて、待っていてくれるのです。

クラスの子供たちはみな、大人よりずっと上手に
息子にかかわります。彼らには「普通」とか「特別」とかのフィルターが
なにもない。まっすぐ息子をみています。楽しいコミュニケーションの
模索がつづきます。そこにいつも私は、大人が介入し得ない、
かけがえのない子供同士のかかわりを見るのです。
そのかかわりの場がもつ、底知れない強い力を感じるのです。

昨日「大きな樹」先生が、「おかあさん。きのうね、こうちゃんと、だるまさんが転んだやって遊んだよ。転んだ!って振り返ると、こうちゃん動いちゃうんだな。はっはっは!」だって。せんせー。うちの子、その遊びかなり苦手です。だって多動なんですから・・・(笑)
わけ隔てなく、あたたかい心で息子にかかわってくださる
「大きな樹」先生には心から感謝です。

たくさん、たくさん、戦ってきました。
いま親として出来ることをすべて、やり残すことのないよう。
これはどこか天から、自分に課せられたミッションだと思っています。
母親である私にしか出来ない仕事。戦いは始まったばかりです。
pina
★こどものことば★

「がんばって♪まっててあげるから。」(ここなちゃん)

息子は小2.普通学級に通っています。
私も息子と毎日学校へ通っています。
息子は発達障害。自閉症です。知的ボーダーです。
お友達と言葉で会話をすることがむつかしい。
多動でうまくいかないと大パニック!楽しい集団大好き。

ノートを書くと、ぐ・・っちゃぐちゃになってしまう。
筆記が遅すぎて黒板がうまくうつせない。焦って泣き声で
「まって!まってよ!」叫びながらノートに向かう息子。
焦れば焦るほど字はみだれ、なにを書いてるんだかさっぱり???

一年生の時、担任の若い女の先生は私に訴えました。
「かわいそうです!はやく特別支援にいれてあげてください!」
「わたし悩んでこういう子供のこと勉強しました!この道のプロの方に沢山相
談しました!普通学級にといった人は、一人もいなかったです!!」

勉強だと?いったい何を「おべんきょう」したか。
「その道のプロ」そうか。一人もいなかったか。

戦ったかいあって、2年生では、経験豊かな年配の先生が担任に配置されました。
ふところも、体も、声大きくて、まるで「大きな樹」のような先生です。
子供たちが「せんせい、せんせい!」まとわりついてぶらさがるので、
休み時間、いつもろうかを歩きにくそうにしてます。
おかえりの歌をオルガン弾きながら大きな声で歌います。
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「こどものことば・こどものこえ・こどものうちゅう」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事