◇[まるごと]の私
先日、「こどものことば」募集をしたのですが、一通しか届かないので、勝手に拾いにいってきました。
ありんこさんのブログから。
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《あーちゃんに聞くからおもしろいんぢゃん!!》
就学時、いつも末娘のことを聞かれるのは母親の私でした。
そして私も、末娘だったら こう だろうなぁ。
と末娘の気持ちを考えては答えていました。
そんな生活があまりにも当たり前になっていて、
担任が「あーさん これは何?(ノートに書いたものをさして)」と尋ねるのに対して、
無言の末娘の横で先回りして『これは うさぎです。」等々答えてしまうのでした。
そんな私に苦笑しながら担任が「お母さんと勉強しているわけではないんです。
私はあーさんに聞きたいんです。」と注意を受けてハッとする。
……理解してもらおうとするあまり口がつるりと滑る、見守るってなんて難しいんだろう。
よくそう思ったものです。
現在は私と末娘が一緒にいても子供たちは末娘に向かって声をかけていきます。
そして私にも改めて「さようなら」など挨拶していきます。
今日は下校班で帰っていくと同じ方向へ帰る下校班の子供たちと合流して、どういう流れか末娘への質問が始まりました。
質問に沿って答えが出ると「おおーー!」と歓声が上がり、とんでもない答えが出ると笑いが起こります。
そんな中質問しても要領を得ないことにイラついて私に答えを求めてきたYちゃん。
そんな様子を見ていて数人の子供たちが、「あーちゃんに聞くからおもしろいんぢゃん!!」と言い出し、周りの子供たちも「そうだよ。」といいながら、レポーターの集団のように私から末娘のほうへどどどーっと移動していきます。
この子供たちはけっして正解を求めているわけじゃないんだなと思いました。
末娘とのやり取りを愉しんでいる、おもしろいと感じるからわいわいがやがやと末娘の周りに集まって互いのキャッチボールを続けているんだなと感じられました。……
つづきはこちら
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これを読みながら、「あ、これって、《ここにいる私》《まるごとの私》が行き交う風景のなかのことばなんだ」と気づきました。
☆「その方が良いと思うよ。だってお母さんいない方が、航くんみんなとたくさん話せるし、もう慣れてるし、いなくても大丈夫だよ」(小2)
☆「痛かったでしょー……、お母さん、びっくりしたんじゃない?」
「だって、言ってないもん」(小3)
☆「どうしてお母さんがいるの?」
「慣れるまで…」
「おとなになると一人だから、いまから一人の方がいいよ」(小1)
☆「あのさぁ、おとなたちが心配するほどじゃぁないよ。べつに…」(小2)
☆「ひまわり学級の子が困っていたら(助けにくい)けど、ちーちゃんだったらすぐ助けに行く!」(小3)
☆そっと後ろからさくらを抱きしめて、
「オレ…無口なおんなが好きなんだ…」(小1)
☆「あーちゃんに聞くからおもしろいんぢゃん」(小5)
☆「赤ちゃんじゃないよ」(小1)
…幼稚園が一緒だった男の子が「しょうがないよ、ちーちゃんは赤ちゃんなんだから」。
すると隣にいた女の子が、男の子の方にクルッと顔を向けて一瞬黙ったあと
「え!?赤ちゃんじゃないよ」。
☆「はなれて、みてる」(小1)
同じ幼稚園出身で同級生のお母さん…。
「私もちーちゃんどうしてる? Bはどうしてるの?」って聞いた。
Bは『みてる』って。
『はなれてみてる』って。
ちーちゃんができることはわかってるから、それでだめな時は、行くみたい。
☆「…お母さんはYがいると大変なの?」(小6)
「お友達と話もなかなか出来ないし、毎朝、Yを通学団から遅れないようにするのは、大変?」
長男は、「別に。友達とは、学校で話すし。お母さんはYがいると大変なの?」(小6)
◇ ◇ ◇ ◇
………このブログをちょっと思い出しただけで、こうした「子どものことば」がいくつもみつかります。
本当に、これらのことばは、「その子が、まるごと、ここにいる・いっしょにいる」ってことが、本当にあたりまえのことを伝えているんですよね。
そのことばたちのなかにいる、子どもが、「ここにいる私」を感じていないわけがありません。
子どものことばのなかに暮らすこと。
それは、言葉の発達や社会性の発達、などということとは、まったく違うものを育てているのでしょう。
おたがい、まるごとのわたし。
おたがい、ここにいるわたし。
そこには、障害があるとかないとか、しゃべれるとか数えられるとかとは違う世界があるように思います。
「あなたはひとりじゃない。たくさんの『子どものあなた』が、いつもそばについているから大丈夫」
「それに、たくさんの『子どものあなた』とおなじ子どもだった仲間が、いつもそばについているから大丈夫」
そんな声が、大きくなった子どもたちの姿から、確かに聞こえることがあります。
もちろん、わたしのなかにも。