Hideと「娑婆の自由度」(その3)
《映画 レインマン》
初めてレインマンを見たとき、ダスティンホフマンはすごいなーと思ったのを覚えています。
どこかで見たしぐさや特徴が、主人公の姿にはつめこまれていました。
でも、私自身が出会う子どもたちは、あの主人公とは、どこか違うとずっと感じてきました。
「ブレインマン」というドキュメントで、レインマンのモデルという人を見たことがあります。特徴は似ているのだと思います。
でも、にんげん全体の印象が、やはり違いました。
モデルであるキムピークには、お父さんと日常の関係が見えました。
しかも、彼は初対面のダニエルに対し、とても自然に「ダニエル、きみはぼくと同じサヴァンだね」と会話をしていました。
映画では、「誰ともつながりがない」人間として、主人公が表現されていました。
でも、あれは、「自閉症」ではなく、幼いころから「施設」の世界しか知らない人の「にんげん」の表現だったのだと、いまは思います。
レインマンを思い出したのは、Hideの様子を聞きながら、「障害」と「経験」について考えたからです。
「同じ障害」の子どもでも、幼い時から「施設のなかの人間関係」しか知らずに大人になるのと、ふつうの家族の中で、親や兄弟に愛され、地域の保育園、小学校の普通学級に通い、町中のスーパーや駅で同級生に声をかけられ、0点でも普通高校に通う経験をして大人になるのでは、まったく違う「人生の表情」になるのだと思うのです。
普通学級のことを「娑婆(しゃば)」と、よく言っていたのは、伊部さんや篠原先生、石川先生でした。
娑婆という言葉は、あまり日常では使わない言葉だし、「刑務所」とセットのような言葉なので、私自身は使いどころがよく分からないことがありました。
でも、介助者を利用してのHideのアパート暮らしが、何年も綱渡りだったことと、綱の下には「一生施設」から出られない暮らしがあることを見てきて、改めて「娑婆」という言葉に実感が湧きました。
かなりの綱渡りではあったけれど、その不安定な綱から落ちなかったのは、子供時代の「娑婆での暮らし」の経験のおかげだと、HIDEが三十歳を過ぎて、よく見えてきました。
小学校に6年、中学に3年、定時制高校に4年。
国語や数学などいわゆる「学習」面で、身についたものをテストで測れば0点でしょう。
そもそも文字も書かないし、言葉もしゃべらないのだから。
でも、Hideは、200人の同級生が、小学生の頃、どんな一日を過ごしてきたのか、どんな授業を受けて、どんなふうに休み時間を過ごし、先生から怒られたり、みんなで笑ったり喜んだり、喧嘩したり、そんな日々の出来事を、そのときその場でいっしょに体験してきて、おぼえています。
Hideが覚えている、その授業のひとつひとつ、日々の生活、友だちの顔、名前、声、笑顔を、私たちが言葉やテストで知る術がないだけのこと。
そんなことを考えていたときに、ふと浮かんだのが「娑婆の自由度」というイメージでした。
《娑婆の自由度》
娑婆という言葉が刑務所とセットで連想されるように、もともと娑婆=自由という意味があります。
でも、Hideのように重い障害がある場合、この社会がどれくらい「娑婆=自由」なの、かとても測りづらいだろうと思います。
小さい頃から、変な子、という視線を浴びる子どもたちがいます。
彼らは、その視線を痛いほどいつも浴びているので、その視線の違いをとてもよくわかっています。一緒にいる母親も同じです。(ほとんどの場合、父親は一緒にいる日常が母親とはけた違いに少ないので少し鈍いところがあります。)
そうした冷たい視線にあふれた今の社会で、自分が、この社会の一員だと実感することは、とても難しいことだと思うのです。
自分が自分のありのままでいていいのか。
自分は自分のままで娑婆に受け入れられているのか。
そうしたことが、分かりづらいことを「障害」と呼んでもいいんじゃないかと、ふと思ったりもします。
その垣根を跳び越えるには、娑婆の自由度を自分で測ることが必要です。
自由度は許容度と言い換えてもかまいません。
幼いころは、「初めての場所は状況」、「耳慣れない音」が苦手で、そこでの立ち位置や安全性を測る前に、一目散に逃げ出すしかない状況が無数にある子ども。
その子が、自分にとっての不安度、苦手度、そして脅威の度合いを、測る基準を豊かにもつこと。
基本的に安全な場所で、たくさんのモデルとなる子ども集団がいる場所で、繰り返し体験すること。
「ひとり」では、目も開けられない恐さも、にぎやかな友だちの声につられて、薄目を開けることもできる。
「ひとり」では、跳び越えられない、いくつもの境界線も、毎日いっしょに生活しているみんなが軽々と跳び、当たり前に出入りするのをみること。
その繰り返し。日々の、毎週の、季節の、学年の繰り返し。
1年生のころは、5分といられなかった教室で、いつしか一日過ごすようになること。
入学のころは入れなかった、暗い体育館や視聴覚室に、6年生のころには当たり前に入れる姿。
そこには、みんなが待っていてくれる体験、誘ってくれる体験があり、結果的にみんなに何年でも待ってもらえた飛び切りの安心と信頼があります。
ごく当たり前の日常の繰り返しのなかで、子どもが獲得するものに、私たちはかなり無自覚なのだと思います。
自分が自分のありのままでいていいのか。
自分は自分のままで娑婆に受け入れられているのか。
その答えを、自分で見つける年月。
そこには、ひらがなや漢字をいくつ覚えたか、どれくらいの計算力がついたか、どれくらいの知識が増えたか、とは別の、みんなと「自分のままで生きる」知と経験があります。
みんなのいる娑婆で生きていく自分のやりかたは、みんなで生きていく場所でしかみつけることはできません。
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