「もともと、そうしたいと思っていた」
そのことは、分かりました。
でも、すぐに次の疑問が浮かびます。
その「もともと」はどこで分かれるんだろう?
たった十年余りの「ふつうの子ども時代」を、
「特別な治療・教育」にすべて費やす「選択」をするというのは、
どういうことなんだろう。
それは、たとえば子どもが心臓病やがんのために学校に通えず、
「病院で過ごす特別な子ども時代」を送らざるを得ないこととは違います。
それは子ども時代の過ごし方を、選択しているのではありません。
子どもの命を助けること、子どもの命を守ることが、
ただ何よりも優先しているのです。
でも、障害児の学校を「選ぶ」ということは、そうではありません。
子どもの人生、子どもの生き方、子どもの子ども時代を、
親が決めること、です。
その親の「基準・価値観」はどこでどう違ってくるのでしょうか。
アリスミラーの『真実をとく鍵』に、こんな表現があります。
【…私たちが成人ののち、誰の影響を受けるかは、
決して偶然に決まるわけではありません。
…文化体系やキリスト教道徳についての詳細な観察、
そしてそれに対する激しい憤激は、ニーチェの幼児体験に由来しています。
…ニーチェがほとんど病的なほどの喜びと幸福感に包まれたのであれば、
それはつまりニーチェにはその著作に自分と近しい世界を発見する、
それなりの根拠があったのです。
…一人の人間が体験し、身をもって知ったことは、
それが本来主観的であるにもかかわらず、一般的な妥当性をもっています。
非常に早い時期に、詳細に観察された家庭としつけの体系は、
社会全体を代表するものですから。
…本来、子ども時代のことがわからなければ、
人の人生を理解することはできないものです。】
(『真実をとく鍵』アリスミラー・新曜社)
自分でものを考えるときや、誰かに何かを伝えようとする時、
わたしの中の基準があります。
「こんなふうに言っても大丈夫かな」と、
石川先生の顔や、小夜さんの顔、伊部さんの顔が浮かびます。
そして、康治やたっくんやりさや知ちゃんといった
子どもたちの顔が浮かびます。
そうした基準のひとつに、アリスミラーの言葉があります。
「子どもの屈辱をわかってやる感覚が、私たちにはまだ備わっていません」
初めて読んだ時から、25年間、一番大事にしてきた言葉です。
アリスミラーに会ったことはありませんが、
アリスミラーはわたしの命の恩人です。
私が子ども時代に感じた痛みや屈辱、混乱や疑問を、
すべて肯定してくれたのが、アリスミラーでした。
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