ワニなつノート

親の当事者研究(その8)




「もともと、そうしたいと思っていた」
そのことは、分かりました。
でも、すぐに次の疑問が浮かびます。

その「もともと」はどこで分かれるんだろう?
たった十年余りの「ふつうの子ども時代」を、
「特別な治療・教育」にすべて費やす「選択」をするというのは、
どういうことなんだろう。

それは、たとえば子どもが心臓病やがんのために学校に通えず、
「病院で過ごす特別な子ども時代」を送らざるを得ないこととは違います。

それは子ども時代の過ごし方を、選択しているのではありません。
子どもの命を助けること、子どもの命を守ることが、
ただ何よりも優先しているのです。

でも、障害児の学校を「選ぶ」ということは、そうではありません。
子どもの人生、子どもの生き方、子どもの子ども時代を、
親が決めること、です。
その親の「基準・価値観」はどこでどう違ってくるのでしょうか。

アリスミラーの『真実をとく鍵』に、こんな表現があります。


【…私たちが成人ののち、誰の影響を受けるかは、
決して偶然に決まるわけではありません。

…文化体系やキリスト教道徳についての詳細な観察、
そしてそれに対する激しい憤激は、ニーチェの幼児体験に由来しています。

…ニーチェがほとんど病的なほどの喜びと幸福感に包まれたのであれば、
それはつまりニーチェにはその著作に自分と近しい世界を発見する、
それなりの根拠があったのです。

…一人の人間が体験し、身をもって知ったことは、
それが本来主観的であるにもかかわらず、一般的な妥当性をもっています。
非常に早い時期に、詳細に観察された家庭としつけの体系は、
社会全体を代表するものですから。

…本来、子ども時代のことがわからなければ、
人の人生を理解することはできないものです。】

(『真実をとく鍵』アリスミラー・新曜社)

自分でものを考えるときや、誰かに何かを伝えようとする時、
わたしの中の基準があります。

「こんなふうに言っても大丈夫かな」と、
石川先生の顔や、小夜さんの顔、伊部さんの顔が浮かびます。
そして、康治やたっくんやりさや知ちゃんといった
子どもたちの顔が浮かびます。

そうした基準のひとつに、アリスミラーの言葉があります。
「子どもの屈辱をわかってやる感覚が、私たちにはまだ備わっていません」
初めて読んだ時から、25年間、一番大事にしてきた言葉です。

アリスミラーに会ったことはありませんが、
アリスミラーはわたしの命の恩人です。
私が子ども時代に感じた痛みや屈辱、混乱や疑問を、
すべて肯定してくれたのが、アリスミラーでした。


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