ワニなつノート

ふつうの子ども




子どもを同世代の子どもから分離することが、
子どもにひどい苦痛を与えるものであり、
「虐待」であるということに気がつけば、
ふり返って、
分離への苦痛や悲しみを訴えていた子どもの振る舞いを
思い出すことは難しくありません。

しかし、それが「子どものため」に行われていると信じている間は、
子どもに何が起こっているのかを理解するのは、
とても難しいことです。

他の子どもと比較し、遅れているところ、
できないことだけに目を奪われている親の目には、
それが子どもの一番の苦しみであり、不幸の元であると映ります。

そして、その苦しみと不幸をいかに減らしてあげるか、
いかにして他の子どもから守ってあげるかを考えるあまり、
目の前の「ふつうの子ども」が見えなくなります。

子どもたちが、「ふつうの子ども」の表情や仕草を
見せないのではありません。

「早期発見・早期診断」を脅迫する社会が、
それを見えなくさせるのです。
一度でも、何かの「診断」をされると、
その子のどんな行動にも、
もっともらしい障害の特徴という説明が貼りついて、
実際に親が自分の目でみていることを、認めることができなくなります。

そして、子どもの無邪気さ、いたずら心、遊び心、
仲間への親しみや嫉妬、未熟な関係作り、
そうしたふつうの子どもらしい振る舞いも、
ふつうのことと感じられなくなってしまいます。

子どもの「障害」が、じゃましているのではありません。
大人社会の「障害」観が、
子どもをふつうに見る目の「障害」になっているのです。

本当は、毎日、子どものそばにいる母親には、
「ふつうの子どもの顔」が見えていることがあります。
でも気付いていても、それを受けとめることができないのです。

子どもの表現よりも、専門家の言葉を信じてしまっている限り、
子どものできなさを受けとめることはできません。

障害をもつふつうの子どもが、
「障害」のために「できないこと」が問題なのではありません。
親や専門家が、「障害」を、
そのままでは「受けとめることができない」ことが問題なのです。

これは、母親の苦悩の物語であると同時に、
何か間違ったことが起こっていると知らせようとする、
けれどそれをはっきりと言葉にすることができない子どもの物語です。

         ☆

いま思えば、私はユータをまったくの障害児としか考えていませんでした。
どの点からみても、どんなことに関しても、
いつでもそう見ていました。
「この子には障害があります」と言われたあの日から、
この子はいつだって「障害児」でした。
この子の「ふつうの子ども」は、
あの日からいなくなってしまったのです。
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