ワニなつノート

自分を受けとめる力(その6)


自分を受けとめる力(その6)



①私自身が意識したというより、周りから言われて、自分は人と違うんだなと意識するようになりましたね。

②ずっとずっと答えられないことを繰り返していると、自分自身でありながら、自分自身でないような、それで、何もかも、すべてにおいて、自信をどんどんどんどん無くすような、そういうような自分になって行きましたね。

③「みっともない」って言われることが、子どもながらに「悔しい」というか…

            ◇

私が気になった三つの言葉。
これらの言葉を聞きながら、私は自分がはまり込んでいる迷路の中で出会った言葉のいくつかを思い出し、それが「つながる」感じがしました。

障害のある子が普通学級にいても自己肯定感が持てない、と言われること。
分からない授業を45分聞いているのはかわいそう、と言われること。
普通学級にいるだけでいいのか、と問われること。
普通学級にいるだけで、自信がつくわけじゃないと、問われること。
どうして、高校に行きたいのか、と問われること。

そうした疑問や問い、を、障害児の問題として考えたら間違える。
そのことは自分の中で確かに分かります。
でも、うまく説明ができません。
何年も、何十年も、言葉が出てこなくて、ここまできました。

           ◇

先の3つの言葉を聞いて、最初に思い出した言葉をいくつか。

☆差別は、「障害」があるから起こるのではありません。分けるから起こるのです。

☆「自己肯定」の反対は、「自己否定」ではなく「自己不信」です。

☆自己肯定感とは、「自分が自分であることを無条件で肯定すること」であり、「できる・できない」や「障害の有無」で左右されずに「受けとめられること」でこそ感じられるものです。

          ◇

《人は向かい合うものに応じて、自分を意識する仕方が変わる》


どうして? どうして? どうして? どうして?
どうして? どうして? どうして? どうして?
繰り返される問い、が差別であることを、私は忘れないでいようと思う。

どうして?と繰り返される問いは、子どもにとって「分けられる」感覚として迫ります。
その問いをめぐって、親に黙って泣かれる子どもは、答えを見つける前に、沈黙を心に誓うしかありません。
生まれたままの姿を、黒いマジックで隠される自分。
そこで、勉強ができること、運動ができること、は自己肯定の力にはなりません。
「できる」を支える土台の自分が、沈黙し地中に隠れていなければならないからです。
自分に何ができるのか、自分が何を好きか、自分は何をがんばれるのか、そうしたことを感じる自分という存在そのものが、一人ぼっちで消されているからです。

それは、「障害」そのものから、自分に迫るものではありません。
「外見」そのもが、自分に迫るのではありません。
「自分にとって、障害があることは不幸ではない。障害によって、分けられ、差別されることが不幸だった」。

ひとりぼっちの子どもに迫るもの。
自分を信じることばがない。
自分を支えることばがない。
自分をまるごと受けとめてくれる笑顔がくもる。
自分は大好きな人に黙って泣かれる存在だという、一番の自己不信。
自分は大好きな人に、自分のありのままの姿を隠される存在だという、かなしみ。
ぼくといっしょに考えてくれる人が、いない。

         ◇

ここまで思ったとき、西坂自然さんの言葉を思い出しました。
「一緒に考えてくれる人間と同時に自分が現れる」という言葉です。


どうして? どうして? どうして?
子どもが答えられないいくつもの「どうして」。
そのとき、子どもが求めているのは答ではないように思います。

たとえば、「どうしてうまくしゃべれないの?」という問いに、「ダウン症だから」という障害名を答えたとします。
でも、そのことは、「どうして?」という問いを、なぜ私は問われなければならないのか、という答えにはなりません。
うまく発音できない理由がその「ダウン症」の症状の一つだとして、なぜ私がそのダウン症の子どもとして生まれてきたの?という答えにはなりません。

答えようのない「問い」を問われ続けるとき、子どもが求めているのは、「一緒に考えてくれる人」なのだと思うのです。
問いの答というよりも、「問われている」子どもの感情によりそって、なんで「どうして?」って聞かれるんだろうね、と一緒に考えてくれる人が、子どもにとって何よりうれしい人なのだと思います。

一緒に受けとめてくれて、一緒に考えてくれる人がいることで、その問いを、自分で受けとめて、考えて、一緒にだした答えを自分に受けとめていくことが、自分が自分であることを支えていく力になるのだと思います。

苦しいのは、障害があることではなく、本当は問うまでもないことを問われることであり、その問いを、一緒に受けとめ、疑い、考えてくれる人がいないことです。
「どうして こんなこともできないのに、ここに いるの?」
「どうして、生まれてきたの?」
「どうして、ここにいるの?」

そんな問うまでもないことを問われることが差別だと、気づくことから、子どもの味方でいることが始まります。

問わないこと。

すべての子どもが、「ここにいる」ことから始めること。

「この子がここにいる」ことを問うたり、分けたりしないこと。

やっぱり、子どもの遊びや学びや生活の場を分けてはいけないと思います。


              ◇


『技法以前』という本から、西坂自然さんの言葉を紹介します。


『向谷地さんに話すと、“自分の問題の対策本部”ができたような気がしてとても心強くなります。
そして現実的にすぐ実行可能な具体的な指針が出てきます。
向谷地さんに自分の言いたいことを言って気持ちを整理できたあと、電話を切ってからも“自分でやってみること”が手元に残るのです。
それは自分だけで考えたものでなく、“一緒に考えてくれたもの”です。

私にとってそこにも意味があって、たとえどんなに的外れなものであっても、
一緒に考えてくれたものは一人ぼっちじゃなく、相手が入っているのです。
だから一人でやってみることはみるけれど、孤独じゃない』
 
              
『一方的に聞き役にまわられると、相手の存在が見えなくなります。
相手がどういう人間なのか、どんなふうに考えるタイプの人なのかが見えません。
すると、しゃべったことが一方通行になって問題が自分に返ってこないのです。
どんな形でもいいからその人がどう考えるのか、どう思ったのか返してもらわないと、その次の「自分で考える」「自分で動いてみる」作業ができないのだと思います。

一緒に考えてくれるときの相手は、いつも自分と同じ目線の高さにいます。
上から言われる感じも、下から言われる感じもしません。
「同じ目線だ」と感じます。
それに「これが人間だ」と思ってうれしくなります。
しかも「こんなちっぽけな自分のことを一緒に考えてくれるのはなぜか」とも思います。

でもそうやって同じ目の高さで話してくれているうちに、私は「ああ、自分はそんなにちっぽけなものじゃなかったのかもしれない。
こんなふうに一緒に考えてくれるということはこの日は自分の存在も自分のできる力も信じてくれているし認めてくれているんだ」と思います。
だから一緒に考えてくれる相手が現れると、同時に自分が現れることになるのです。
けっきょく人間は、人間がいないと、自分がいるということに気づかないのかもしれないと思います……」


(『技法以前』向谷地行良 医学書院)
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