ワニなつノート

わたしの出会った子どもたち (その1)

わたしの出会った子どもたち (その1)


大学を出て1年目。23歳のとき、
わたしは知ちゃんに出会いました。
4歳の知ちゃんと30人の子どもたちと過ごした一年。
そこで私は大事なことのほとんどを学びました。
50歳を過ぎて、それが確かにわかります。
いま私が言葉で伝えようとしていることのほとんどすべてが、
あの一年のなかにありました。

自分が子どもたちのなかにいるとき、
どういう立ち位置にいればいいのか、
子どもたちみんなとどう向き合えばいいのか、
一人の子どもとどう向き合えばいいのか。
子どもたちの、それぞれの関係のなかにいること、の意味を、
わたしは子どもたちから学びました。

「お兄ちゃん先生」という、ちょうどいい微妙さのなかで、
子どもたちと一年を暮らすことができたおかげでした。
担任と補助の先生は他にいて、わたしはただ、
子どもたちと遊ぶだけでよかったのです。
子どもたちの仲間にいちばん近いところに、私はいられました。

担任の先生は子どもが大好きで、
ぜんぜん子どもを怒らない人でした。
わたしは、「この先生だったら、保育園でも小学校でも、
自分ももう少しましなワルガキでいられたのかな~と
思いながら一年を過ごしました。
わたしの中の「ワルガキ」は、知ちゃんたちと一緒に、
4歳児クラスの一年をちゃっかりやり直したのだったと思います。
しかもそのなかで「介助」のような役割もできたことが幸運でした。

知ちゃんたちと過ごした一年は、本当に幸せな一年でした。
「障害のある子もない子も一緒に育ち合うのがいい」
そのことを、学生時代に言葉で言い張っていたけれど、
あまり真剣に聞いてくれる人はいませんでした。
そんなこと言ったって…と。

でも、自分自身で、三〇人の4歳の子どもたちと、
一日一日、春夏秋冬の一年を過ごしたおかげで、
私は誰かに分かってもらう言葉を必要としなくなりました。

「どっちがいいか?」
それは、問いが間違っているのでした。
考えて、答えを出すことではなかったのです。
「子どもが子どものなかでいっしょに育ち合うこと」
それは「問うまでもないこと」でした。

いっしょにいること。
30人の子どものにぎわいの中で、毎日の暮らしを生きること。
いろんなことが起こること。季節が過ぎること。
気がつくと、子どもたちはひとりひとり、いつのまにか成長している。
子どもの一年の成長のなかに、「いっしょ」は溶け込んでいて、
そのことに、どれほど特別な意味があるのかは見えなくなります。
だから、ふつうの大人にはなかなか見えないのでしょう。
目の前の子どものなかに、子どもだった自分の声を聞ける人だけが、
「いっしょのたからもの」を思い出すことができるのかもしれないと、
そんなことを思います。

あの一年での子どもとのつきあい方は、
その後、どこででも通じました。
特学でも、適応教室でも、定時制でも、情緒障害児学級でも、
児童相談所の保護所でも、自立支援ホームでも、
子どもがいる所なら、どこででも同じ向き合い方で、
わたしは子どもと出会うことができました。
障害のある子どもも、不登校の子どもも、虐待された子ども、
親に捨てられた子ども、やんちゃな中学生や高校生や、
どの子もみんな、知ちゃんたちのクラスにいた子どものなかの
「誰か」でした。
子どもが子どもであることは、障害とか病気とか、
そんなことには何の関係もなかったのです。


知ちゃんにもう10年くらい会ってないけど、
もう三十過ぎだなぁ(>_<)
いまも、4歳の頃と同じで、言葉は話さず、
静かに泣くときの涙のこぼれかた、さびしそうに目をふせること、
そしてうれしそうに笑う表情で、生きていることを伝えあう、
そんなオバサンになっているのかな。
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