《もっとこの子に会うために・学び編》
(その1)
「この子に学んでほしいものは、何ですか?」
「何を学ばせたくて、子どもを学校に通わせていますか?」
「あなたが学んでほしいと願っているのはどんな学びですか?」
「先生に何を求めていますか?」
「学校に何を求めていますか?」
「この子に、何を求めていますか?」
「学びの中身について、子どもと話したことはありますか?」
「学びの中身について、先生と話したことはありますか?」
「誰かと話したことはありますか?」
この子の学びとは、何か。
この子にとって大切な学びは、何か。
この子にとって「学びの理解」とは、何か。
この子が「必要とする学び」とは、どのようなものか。
それについての理解の共有は誰と、どれくらいできているか。
私たちはまだその答えを、ほとんど言葉にできていない。
答えどころか、問いさえ定まらない。
だから、この子に尋ねながら、この子の学びを一緒に探し、学んでいきたい。
変わっていきたい。
もっとこの子に会うために。
◆
《もっとこの子に会うために・学び編》
(その2)
学校は、これが「学び」だと一方的に決めて、子どもを苦しめてきた。
たとえば聾学校では長い間、手話が禁止されていた。健常者に近づく口話法だけが「学び」だとされた。
それは手話という大切な「対話」手段の禁止であり、「学び」の禁止だった。
手話による学び、当事者である「子どもの学び」という発想はなかった。
健常者に近づくだけが、「学び」だった。
たとえば、中学も高校も全教科の教科書の漢字にルビがあるといいね、と考える教師はどれくらいいるだろう?
最近まで、高校入試の問題文にルビが認められなかったように、それは「ずるい」と感じる教師の方が多いだろう。
たったそれだけのことで、どれほど多くの子どもの、どれほど豊かな「学び」が失われてきたか、考えたこともないだろう。
「漢字が読める」ことに近づくだけが、「学び」だった。
しかも、「就学猶予・免除」で、子どもの学びを奪ったのは、「教育不可能」という発想だった。
教育不可能? そんな子どもがどこにいるのか?
◇
私が8歳の時に「分けられた」ままだったら、今の私を育てた「学び」は、ここに存在しない。
だから私には、学校の「学び」に対する根本的な不信感がある。
「私たち抜きに、私たちのことを決めないで」という言葉がある。
子どもたちに言わせれば、「子ども抜きに、子どもの《学び》を決めないで」ということになる。
だから、学校が「子ども抜きに、子どもの学び」を決めたり、なしにしたりさせないためには、私たちが子どもと話しながら、「学び」を言葉にしてみるしかない。
さて、私は、「学び」について、子どもと何を話してきただろう?
◆
《もっとこの子に会うために・学び編》
(その3)
昔は、子どもの「学び」より、障害を直そうとされてきたんだよね。
「できない」「分からない」「学べない」が、障害と思われていたから。
「障害があるのはかわいそう」
「分からない授業はかわいそう」
「障害があると不幸でしょ」
「直りたいでしょ」
「直してあげる」
そう言って、障害を直そうとした。
健常者に近づくように。障害が見えないように。
「直す? どうやって?」
昔は、障害のある姿は恥ずかしいって見られていたからね。
たとえ直せなくても、少しでも減らそうとした。
ふつうに見えるように。近づくように。
「ふり」をさせられた。
「1+1は?」とからかわれて、答えられないことを「かわいそう」と思われたから。
せめてひらがなくらい読めるように。
自分の名前くらいかけるように。
一人で着替えができるように。
「それが、学び?」
「障害は人と社会の《あいだ》にあるんじゃないの?」
昔は、障害は《子どもにある》と信じられていたからね。
「今は?」
「今の、学びは?」
◆
《もっとこの子に会うために・学び編》
(その4)
誰かと比べることで、この子の「学び」の何が分かるだろう。
誰かの「できる姿」と、この子の「できない姿」を比べてもこの子の「学び」は分からない。
学校が、この子の「学び」に応えられないのは、この子が「できない」からじゃない。
この子たちに出会ったことがない、ただの経験不足と対話不足。
「できる姿」の教育しか知らなかったのは、子どもと対話することを知らなかったからで、この子の障害のせいではない。
そこに対話があれば、直そうとは思わない。
子どもと対話していたら、直そうという考えは浮かばない。
ただ、子どものなぜに答え、子どもの知りたいこと、やってみたいことに応えるだけ。
子どもと対話していれば、子どもの楽しみ、あこがれ、学びたい世界を、子どもが教えてくれる。
この子の「できる姿」は、他の子とは別の形かもしれない。
私にもこの子のできる姿、生きやすい形、希望の形がどのようなものか分からない。
だから、この子の「学び」を探すにはどうすればいいか。
この子に聞くしかない。
この子は私の言葉では話してくれない。
でも、私は、この子と話したい。
ではどうすればいいか。
この子に聞くしかない。
紺野くんの二重跳びにあこがれて、やっちが縄跳びをはじめたことがある。でも体育のテストではとばない。紺野くんの「できる姿」にはあこがれても、先生の評価には興味がない、らしい。
この子が何をどんなふうに受け取り、学び、理解しているのか、私にわからないことがある。
それでも確かなことは、この子の学びのすべては、この子の対話の証だった。
「できる」までの日々に、どんな対話と物語があったか。
「できない」ままの日々に、どんな対話と物語があったのか。
それを抜きに、「できる・できない」の形を比べても仕方ない。
「だいたい、この子であることを直してしまったら、この子に会えなくなってしまうだろ」
私たちは、いくつになっても「できる」と「できない」の両方を持ちながら生きていく。
いつかまた、「できる」ことがどんどん少なくなって、たとえ家族の顔も名前も忘れてしまったとしても、対話する「私」はなくならない。クリスティーンさんが、「私は私になっていく」と言ったように。一つひとつの「できる」を手放したとしても、私は私を手放さない。
だから、ひらがなが読めなくても、言葉がしゃべれなくても、たとえ私の顔と名前を忘れても、私はこの子がこの子であることを手放さない。
どんなときにも、私とこの子のつながりを手放さない。
そういう私でいることを、私が学びたい。
もっとこの子に会うために。
この子の学びを、私も学びたい。
もっと自分に会うために。
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