ワニなつノート

ふつうの子ども (1)




「障害児って、どんな子ども?」
「障害児というのは、『障害』をもつ子どもでしょ。」

「そう…。じゃあ、『ふつうの子ども』は?」
「ふつうの子どもは…、『障害』のない子どもでしょ。」

「障害のある子どもは、ふつうの子どもじゃないの?」
「えっ?」

「だって障害があったって、なくたって、
0歳は0歳だし、3歳は3歳、6歳は6歳なんだから、
子どもは子どもでしょ」
「……」

「障害をもつふつうの子ども」に対して、
親や教師は、その子の中の「ふつうの子ども」をなしにして、
「障害児」とだけ扱ってしてしまうことがあります。

たとえ、「ふつうの子ども」だと思っていても、
それを子どもに分かるように伝えなければ意味がありません。

大人にとっては言うまでもない当たり前のことでも、
それを子どもと分かちあい、子どもが自分で確かめるという過程がなければ、
子どもにとっては「ない」ことと同じです。

そうすると、子どもは、
「ふつうの子ども」としての生活を経験できないことになります。
「障害児の生活」だけを経験してしまうことになります。

肝心なのは、大人がどう「思っているか」ではなく、
子どもがどう受け取っているかなのですから。


「障害をもって生まれたふつうの子ども」は、「ふつうの子ども」です。
ふつうの子どものなかに、生まれたときから目が見えない子どもがいたり、
自分では呼吸することができない子どもがいます。

そうした事情を何も選ばずに生まれたきた子どもにとって、
親が、「片方」だけしか受けとめられないとしたら、
その子は、もう片方の自分を、自分で受けとめることはできません。

たとえば、障害があるのに、それをないことにして、
「ふつうの子ども」としてだけ育てられたとしたら、
子どもは大変な苦労をするでしょう。
点字や車椅子や手話や、必要な援助をまったく与えられないとしたら、
それは虐待と呼べる場合もあるでしょう。

その反対も同じです。

ふつうの子どもであるのに、それを受けとめず、
「障害児」としてだけ扱われ、教育されるとしたら、
子どもは大変な苦労をします。

「ふつうの子ども」時代を奪われること、
「ふつうの子ども」体験の欠如は、虐待と呼べる場合もあるでしょう。
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「受けとめられ体験について」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事