ワニなつノート

指点字通訳と普通学級の介助(その6) 


【6・指点字と通訳の間にあるもの】



「指点字と通訳」について、
福島さん本人は、次のように2行で書いています。

【指点字は私と他者とのコミュニケーションを回復してくれた。
そして、もう一つ、指点字は、「通訳」という手段を通して、
私に広い世界を提供してくれたのである。】

(『盲ろう者とノーマライゼーション』明石書店)


これだけを読んでいたら、
「指点字と通訳の間にあるもの」が、
私には見えなかったと思います。
そして「指点字」の意味と、「指点字通訳」の意味を
分けて考えることもできなかったでしょう。

『ゆびさきの宇宙』(生井久美子著)では、
第5章《指点字考案》、
第6章《「通訳」誕生》と、
別の章に分けられています。
しかも、5章の主人公は、福島さんというよりは、母親であり、
6章は佳子さんといえます。
つまり、そこでは、福島さんの苦労を分け持ちたいと
願う人のまなざしを通して書かれているのです。

この構成でなかったら、
私は「通訳」と「介助」のつながりにも、
気づかなかったかもしれません。

前置きが長くなりました。
お母さん、佳子さん、生井さんの3人の、
福島さんへのまなざしを通して、
気づかせてもらえたことのいくつかを
書き留めておきたいと思います。

   ☆    ☆    ☆

【指点字は私と他者とのコミュニケーションを回復してくれた。
そして、もう一つ、指点字は、「通訳」という手段を通して、
私に広い世界を提供してくれたのである。】



福島さんは、指点字は「コミュニケーション法」と書き、
通訳は「手段」と書いています。

「通訳」という手段!  
そう、通訳とは、手段なのです。

何のための手段?
人と人とをつなぐための手段。
人と世界をつなぐための手段。

そう、「介助」も同じでした。
私は「介助」という「手段」として、
普通学級の教室にいたのでした。

子どもと子どもをつなぐための手段。
子どもと世界をつなぐための手段。

この子の「わたし」が、
みんなの「わたしたち」から、こぼれおちないように。
この子に、声をかける。
「まだ、休み時間じゃないよ。授業中だから座ってなきゃね。
ほら、みんなも座ってるよ。」
となりの子に声をかける。
「マキちゃん、こくごの教科書、出してあげてね。」

この子に、声をかける。
「次は音楽だから、音楽室に行くよ。
ほら、みんなもピアニカ持ってくでしょ」
回りの子どもたちに声をかける。
「みほちゃん、職員室寄ってから行くから、
いっしょに先に行っててね」

初めてこの子に出会う子どもたちのために、
最初だけ、私がこの子に話しかけることもある。
ただ、ふつうに話せばいいんだと。
言うことを聞いてくれることもあれば、
知らんふりされることもある。
そんな、ただのふつうの子どもだということを、
周りの子に「観察」させてあげるために、
この子といっぱいしゃべることもある。

私が私を「介助という手段」にして、
普通学級の中でやっていたことは、そんなことでした。

   ☆    ☆    ☆

【通訳とは、私の手に直接触れている人が、
第三者の言葉をそのまま伝えたり、
周りの様子をラジオの野球中継のように
わかりやすく伝えたりすることである。

最初は、1対1の会話をとりもつ手段だった指点字は、
この通訳という行為を経て、多くの人との雑談や、
会議や討論という「開かれたコミュニケーション状況」にも
私を連れだしてくれたのである。】



知的障害や自閉の子の「介助」という場合、
その子は「見えて」いるし、「聞こえて」います。
ほとんどの場合、言葉や手振り身振り、声のニュアンス、
顔の表情や、周りの状況で、その子と介助者は、
1対1の「会話」ができています。

つまり、「指点字」という「コミュニケーション法」は、
持っていることになります。

だから、そこでは「通訳という手段」とは、
「介助者という手段」といえます。

介助者という「手段」とは、
その介助者と子どもが1対1でやりとりできることを通じて、
多くの人との雑談や、会議や討論という
「開かれたコミュニケーション状況」に
この子を連れだしてあげることといえます。

普通学級で介助をする人は、介助の仕事を、
そんなふうに考えているでしょうか?
普通学級の担任の先生は、
介助がそういう仕事だと分かっているでしょうか?
何より親は、そのことに気づいているでしょうか?

そして、「介助」の意味を、
その子にちゃんと伝えているでしょうか。

「困ったら、いつでも助けてって言っていいんだよ。
私はあなたの味方だよ。いつでもそばにいるけれど、
できれば私の出番がないのが、私のいちばん上手な仕事だよ」
そのことを、子どもにちゃんと伝えているだろうか。

   ☆    ☆    ☆

【盲ろうになってからの十年間、私は指点字による
「触れ合うコミュニケーション」によって生きてきた。

直接、間接に数多くの人の「心」が通り過ぎていく。

そうした心の動きは、単に「文字」としての
指点字によって表されるだけでなく、
指点字の強さや「間」の取り方といった
さまざまな「手と指の表情」によっても表現される。

また、指点字が、「心」を伝える手段である以上、
それは穏やかなコミュニケーションだけでなく、
激しい口調や喧嘩のときの感情に震える心も、
伝えられるものでなければならない。

それでこそ、本物のコミュニケーションを
とりもつ手段だといえる。
幸いなことに、「指点字で喧嘩のできる相手」を
何人もつくることができた。】


(つづく)

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