禁じられた知の語り方 「IT・“それ”」
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「IT・“それ”」が現れたら、大変なことが起こる。
みんながIT(それ)に振り回され、家族の生活も一変する。
幼い子どもたちも、IT(それ)に巻き込まれる。
子どもは、IT(それ)について説明してもらえない。
いったいぜんたい何が起きているのか、戸惑う子どもを、気にかけてくれる人が誰もいない。
やがて、子どもたちは、IT(それ)について口にしてはいけないのだと学ぶ。禁じられた知。
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自分の身に何が起こっているのか、自分の家族に何が起こっているのか、誰にも教えてもらえない子ども。「禁じられた知」による、子どもたちの「怖れ」は共通している。「孤立化・無力化・透明化」の呪いに縛られることだ。そうして、「自分の声を飲み込むこと」が、日常になる。禁じられた知。
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そういう怖れに閉じ込められた子どもは少なくない。
そして、その子を助けたいと願う人も少なくはない。
「私も同じだった」「子どものころ、同じように沈黙の掟に縛られた」
「子どものころ、誰も助けてくれる人に出会えなかった」
「もう大丈夫」「私たちが、あなたと話すから」
「怖がらなくても大丈夫。」「私たちが、まだ幼いあなたたちを必ず守るから。」
「私たちも、大人の間違った情報や偏見に振り回されたのだと、いまなら分かる」
「子どもたちを怯えさせる、古い仕組みを、いまもまき散らしている人がたくさんいる。だから、私たちはもうIT(それ)を怖れなくても大丈夫だよと、子どもたちに伝えたい」
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「IT・ “それ”」は何だろう?
助けたい子どもと、「IT・ “それ”」を分けてしまう語り方は、どこかに「すれ違いの呪い」がかかっているんじゃないのか。
「IT・ “それ”」が現れると大変、という怖れを含み込んだ語り。それもまた、新たに「メドゥーサの凍りつきの呪い」を生み出しているんじゃないのか。もう少し時代が変われば、語り方も変わるかな。
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※(注1)
明言しておくが、私の出会った子どもたちの周りには「IT・ “それ”」は現れていない。
誰も秘密にしたり、隠したり、分けたりしなければ、「IT・ “それ”」は現れない。
知ること、居ること、が禁じられないつながりの中にいれば、禁じられた知に縛られることもない。
「IT・ “それ”」が「障害児」のように、受け取る人が、受け取る余地があるとすれば、この社会には「禁じられた知」の呪いがまだまだいっぱいある、ということだろう。
「IT・ “それ”」は何だろうね?
《追記》
昨日、この記事を投稿したら、今朝、下の記事が表示されていた。
久しぶりに読み返して、そうそう、これこれ、と思う。
※【写真:仲村伊織】