この本で、一番好きな場面を紹介します。
佳子さんが、初めて「通訳」をしたのは、
1981年7月21日でした。
福島さんは、お母さんが「指点字」を
思いついた日を覚えていませんが、
「通訳」の始まりの日は忘れないと言います。
「やっと自分がこの世界に戻ってきた。
いま、ここにいる気がした」
お母さんとは生まれたときから一緒に暮らしているのだから、
見えなくなっても、聞こえなくなっても、
家族と一緒にいる世界からは、消えていなかったから、
「指点字」でお母さんと会話できた日のことは
特別に記憶に残っていない、ということでしょうか。
でも、学校の世界、友だちとの世界、
外の世界は、やはり「家族や親しい人との世界」とは、
また別の一歩外の世界でもあるのでしょう。
その「世界に戻ってきた」日が、
7月21日だったのでしょう。
(障害のあるふつうの子どもたちが、
感じる「世界」も同じ感覚なんだろうなと、
ふと思います。
これを書き始めると、長くなるので戻ります。)
さて、せっかく世界に戻ってきた福島さんですが、
夏休みで実家に帰省すると、
そこにはまだ「通訳」はいません。
☆ ☆ ☆
『「どうせぼくなんか、やっぱりだめだ」と
自暴自棄な思いをつづった長い手紙を送ってきた。
佳子は、ただならぬようすに、
「そんなことない、帰ってくれば支えてくれる人が
たくさん待っている」と返事を出した。
そして、「当然、通訳を求めていいのだ」と伝えた。
周りが訳さないのが悪いのだ。
「情報が伝わっていないのは、周りの人間が
その責務を果たしていないことなんだから」
要求していいんだ。
そのとき牢屋の窓枠がブワっと広がり、
壁がきえた。
智に元気と自信がわいてきた。
佳子の存在はエネルギーになり支えとなった。
☆ ☆ ☆
「要求していいんだ」
そう言ってもらえたときに、壁はきえました。
「助けてと言ってもいいんだ」
そう言ってもらえたときに、壁はきえます。
「あなたは、あなたのままで、そこに生きていていいんだ」
そう言ってもらえるときに、壁はきえます。
《当然、通訳を求めていいのだ。
周りが、訳さないのが悪いのだ。
情報が伝わっていないのは、
周りの人間がその責務を果たしていないことなんだから。》
《要求していいんだ。》
そのとき、壁が消える。
「そのとき」とは、
「求めていいのだ」と言ってくれる人に出会い、
「要求していいんだ」と思える自分に出会うときです。
人は、どんなに「能力」があろうと、
ひとりで「そのとき」に出会うことはできません。
その「壁」は、ひとりでは壊せないようになっています。
「要求していいんだ」
「助けて」といっていいんだ、と、
初めて言ってもらい、
それも、ありったけの「当り前でしょ!!」という
自信あふれる思いと一緒に言ってもらえたこと。
「盲ろう」になって初めて、
《盲ろう者として必要な助け》を求めていいんだと
教えてもらったとき、
もともと自分のなかにあった「助けてほしい」、
「みんなのいる世界に戻りたい」という思いを、
自分にうなずいてあげるとき、
壁は消えます。
☆ ☆ ☆
私には、「そのとき」は、
就学相談会のときのお母さんたちの言葉に重なります。
「普通学級に行っていいんですか?」
「普通学級に入れるんですか?」
「子どもを普通学級に入れてあげたい、
幼稚園の友達と一緒に地域の小学校に通わせてあげたい」
「みんなと一緒のふつうの子ども時代を過ごさせてあげたい」
そういう、自分のなかに、自然にある思い、
そう、我が子を「障害児」として育ててきたというよりは、
日々の生活のなかでは、ただの我が子としてつきあってきた
実感の方が強いのだから、
ふつうの子どもなら、ふつうの小学校時代、
親と同じような小学校体験をして、
一緒にそのことを話したい、お母さんが子どもの頃はね…、
お母さんが好きだった男の子わね…、
そんなふうに、子どもとのふつうの生活を思うことは、
それだけ、子どもを大切にし、
ふつうに生きていることの証でもあります。
でも、そのあまりにふつうの思いを、
「黙らせる力」「あきらめさせる力」が、
この社会にはあります。
「助けて」という言葉さえ思い浮かばないくらい。
なぜなら、「助けて」と言えるには、
助けを求めていいんだと、
伝えてくれる人に出会わなければなりません。
私とこの子を助けてくれる人が、
この世界にいることを知らなければ、
その言葉はどこからもわいてきません。
だから、毎年の就学相談会で、
同じようにつぶやくお母さんがいるのでした。
「普通学級に行ってもいいんですか?」
それは、「この子を助けてって言ってもいいんですか?」
という言葉でした。
「この子のことを助けてくれる人がいるんですか」と。
そして、会に出会うことで、
「子どもを分けてはいけない」
「兄弟姉妹を分けてはいけない」
「みんなで一緒に普通学級にいこうよ」
そういう言葉に出会い、
実際に、子どもを普通学級に入れているお母さんたちに出会い、
楽しく学校生活を送っている子どもたちに出会う。
そのとき、壁は消えるのでした。
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