ワニなつノート

看板をおろすこと



1・子どもが持たされる看板

「たとえば、10歳の時ですけど、家出をしたことがあって、
母は五時間も僕を探し回ったんです。
もちろん、見つかったあとではさんざんぶちのめされました。

いま思うと、そういう目にあうのも当然でした。
二度とそういうことはやりませんでした。

ただ、その代わり、別の馬鹿げたことをやりましたけど。
どうしても、そういうことをせずにいられなかったんです。
たぶん、生まれつき根性が曲がってるんですよ」

「なぜ自分がそういうことをするか、考えてみたことがありますか?
あなたのことをお母さんが五時間も探し回るようにしむけたのは、
何だったのかしら?
ただお母さんをつらい目にあわせたかったの?
その時の10歳の子どもの気持ちになってみてくれませんか?」

その若者は、そう言われても、私の顔を見ようとしませんでした。
ただ私には、その子の顔が変ったのが見えました。
しばらく黙ってから、その子はこんなふうに答えました。

「僕が覚えているのは、母に打たれたとき、
こんなに絶望的になって僕のことを探してくれたんだから、
僕はやっぱり愛されているんだ。
こんなふうに猛烈に怒っているのは愛情の徴だ。
そんなふうに考えていたことです」

「もしもあなたがその愛情を試してみようというので
家出をしたのだとすれば、それは馬鹿なことなんかじゃありませんよ。
おそらく、あなたはそれ以外、
愛情を証明してくれるものをもたなかったのでしょう」

「そうですね、そんなふうに見れば、違ったように見えますね。
僕はいつも、自分が両親の重荷で、
僕なんかいなければ、両親は喜ぶんじゃないか、と感じていました。
でも、母があんなに怒り狂ったので、そうじゃないってわかったんです」

「だとすれば、その10歳の子はそもそも賢く、
かつ合目的的に行動したんじゃありませんか。
なぜ、それを馬鹿げたこと、なんて言うんです?」

「分かりません。
…僕はいつでも自分は悪い子どもで、
いつでも馬鹿げたことばかりせずにいられないんだと思っていましたから」


こんなふうに、子ども時代の最初から最後までひどい看板を
担いだまま過ごす人もそれほど稀ではありません。

その看板にはこんなことが書かれているのです。
「悪い子・バカ・どうしようもない、厄介者」。

担いでいる本人は、周囲の人たちが看板に賛成しているように見えている限り、
それを変えようなどとは考えもしません。

このような看板を持たせるのは子どもの親です。
そこに記されているのは、
親がその子のがまんできないところだと思う点なのです。

以上、『闇からの目覚め・・虐待の連鎖を絶つ』
(アリスミラー著)より引用。



2・看板をおろすために

また、親だけでなく、先生がその看板を子どもに持たせることもあります。

理屈は同じです。

先生が、その子のがまんできないところを、
看板に書いて、子どもに背負わせるのです。

先生たちは、自分自身が適応してきた仕組みに
疑問を挟まれることがとりわけ嫌いです。

それは、その仕組みが「良いもの」で大切にしたいからではなく、
むしろその仕組みに適応することに苦しんできたからです。

自分はその苦しみを乗り越えたからこそ成功したと思っているからです。
自分が努力してなしとげた「苦痛への適応」を、
たいした意味のないことのように扱われることが耐えられないのです。

それが「0点でも高校へ」という言葉が、
多くの人に受け入れがたい理由です。

いまさら、0点でも高校とか、
点数より大事なことがあるとまっとうなことを言われても、困るのです。

子どもを評価するのに、点数以外の基準を持っていないのですから。

それは、自分を評価するのにも、
点数以外の基準を持っていないことを示しています。

しかし、私たちはいつまでも点数にしばられた評価基準、
人間観を守り続ける必要などないのです。

まず親が、それに疑問を持ち、0点でも当たり前にと言っていいのです。
点数が取れないこと、勉強が苦手なこと、知的障害があること、
それは人として恥ずかしいことではないと。

堂々と、学校の先生に伝えることです。
子どもたちに聞こえるように、話すことです。

そうすることで、子どもたちの力になれるのです。

『ワニなつノート』より
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