小さい頃から農業と離れることなく50数年生活してきた。
「食べる」という行為は人間にとって必ず必要な行為ですが、そこには作る人とそれを食べる人の関係が存在してきます。
我が家ではどうだったかな。
畑や田んぼがある限りそこを荒らさないように作物の作付を行ってきたような気がする。農業で儲けることを考えないで野菜やコメを作って来たから、販売する以外に多くの人が我が家の野菜やコメを食べてきました。いつも「おいしい」と笑顔で答えてくれるのがうれしくて経費を度外視して作ってきましたね。農薬を使っていない有機栽培の野菜は姿形は悪いけど、安心しておいしく食べられるんですよね。「食いきれねーからいっペーもってけー」がいつもだったよな。それがいろんな人との結びつきを深める絆だったんですよね。
数十年前は病気や害虫と戦うために農薬や化学肥料を大量に使った農業が主流だったが、それによりアレルギーやアトピー、化学物質過敏症などの障害が出始めた。要するに安心して食べられない見た目だけを重視した作物の生産方法だったわけです。そこから「安全・安心」を売り物にした生産方法に変わってきて、最近ではほとんど農薬を使用しない農業が主流となりました。
「良いものを大量に生産」から「安全なものを安心して食べられるように」に変貌してきたのである。それには農家の自然を相手に戦ってきたた技術と努力があったからであると思う。「自分も安心して食べられないものを売るわけにはいかない」それが今の農業者ですね。
それが一挙に崩れ去ったのが、3.11震災後に発生した福島第一原子力発電所の事故でした。
私たちがよりどころにしてきた「安全・安心」が降り注いだ放射性物質の影響でもろくも崩れ去ったのです。
日々自然と闘いながら苦労を重ねてきた農業者にとって新たな強敵が出現してしまったのです。この強敵は手ごわすぎます。農業そのものを破壊してしまうかもしれません。多くの農業者が戦いに負けて廃業していくことになるでしょう。農業が営まれることにより風景をつくり、自然環境を整えてきましたがそれも崩れてくるかもしれません。
農業が担っている本質的な行為は、食料を供給することを通じてよりよい環境を作り上げて行くことだったんだろうと思います。
農業とはひとのあかしですから、土を耕すことをやめてしまったらひとはどうなるんだろう。
南相馬市の詩人 若松丈太郎さんの詩からそんなことを思わされました。
ひとのあかし
ひとは作物を栽培することを覚えた
ひとは生きものを飼育することを覚えた
作物の栽培も
生きものの飼育も
ひとがひとであることのあかしだ
あるとき以降
耕作地があるのに耕作できない
家畜がいるのに飼育できない
魚がいるのに漁ができないということになったら
ひとはひとであるとは言えないのではないか